ポスト・レフォルマシの文学界に現れた「孤高」の作家・ディー・レスタリ初期の作品集。
さまざまな愛のかたちが挽きだす、香り高い一冊。

 ディー・レスタリ(福武慎太郎監訳;西野恵子・加藤ひろあき訳)『珈琲の哲学 ディー・レスタリ短編集1995-2005』(上智大学出版、2019)、212ページ、1,870 円(税込み) 

評者:竹下愛(東京外国語大学非常勤講師)

 「カセットテープ」が、インドネシアではまだかろうじて音楽ソフトの主流であった2000年代の初め、あるポップスの女性トリオが人気を集めていた。ダイアナ・ロス風のヴォーカリストの一人が小説を出版して話題になった時、多くの人は新手のプロモーションだと思った。当時、「レフォルマシ」の冷めやらぬムードの中で台頭した若い女性作家たちが「サストラ・ワンギ(いい香りの文学)」の名のもとにもてはやされていたからである。一方、女性ヴォーカリストはその後さらに創作の世界に没入し、くだんの小説『スーパーノバ: 騎士と王女と流星』(Supernova: Kesatria, Puteri dan Bintang Jatuh, 2001)は、15年後の2016年にようやく終結する6部作から成る壮大なシリーズ小説に成長した。

 ディー・レスタリは、このようにしてインドネシア文学界に登場した。最新作『アロマ・カルサ』(Aroma Karsa, 2018)においても「スーパーノバ・シリーズ」同様の精緻かつダイナミックな物語を描き出しているディーは、サイエンス、哲学、宗教など、多様なテーマをコンテンポラリーな人間模様に鮮やかに織り込む。現代のインドネシア文学を牽引する最も精力的な作家のひとりである。

 『珈琲の哲学』は、2006年に出版されたディー・レスタリ短編集の邦訳である。1995年から2005年の10年間に創作された18編の短編小説と散文から成る本書は「テンポ」誌の「今年の1冊」に選ばれ、グナワン・モハマドは、「若く美しい女性」という属性でディーらを括りこんだかつての「サストラ・ワンギ」なる総称が、いかに無意味なものであったかとコメントを寄せた。

 原作本の巻頭に寄せられたディー自身の告白によると、本書に収められている短編小説や散文は、彼女が作家としてデビューを果たす以前から誰かに読ませるつもりもないままに書き溜めていたもので、出版は彼女にとって、それらの埋もれた言葉にひとつの「通気孔(ventilasi)」を与え、「読む人々の意識の中に生かしてゆくような試み」であった(Lestari, 2012)。そして、その目論見の通りに、所収の18編は読むものの意識や記憶にひとつの世界観を刻み込んでゆく。

 表題作「珈琲の哲学」は、至高のコーヒーを探求する若者たちの物語である。本作をもとに2015年に制作された同タイトルの映画は、今どきの「コーヒー・カルチャー」のアイコンとして記録的なヒットを遂げ、シリーズ化されて日本でも公開されている。(もっとも、ストーリーよりも道具立てや人気俳優陣のビジュアル重視で展開する映画シリーズは、原作とはやや異質である)。莫大な褒賞金と引き換えに、「完璧な味わいの、欠点のないコーヒー」を作れという挑戦を突き付けられるベンとジョディ。やがて彼らが辿るジャカルタとジャワの農園をつなぐ道行きは、さながら「本当の幸い」をもとめて銀河鉄道を旅するジョバンニとカムパネルラを彷彿とさせる。このように、ディーが描く小説群には、どこか宮沢賢治の童話にも通じるようなひとつの宇宙観があるのだ。

 ディーは自らが創作に求めているテーマとは、「やがて『ジャティ・ディリ(jati diri)』に変化していく『愛(cinta)』について」であると語っている(上掲書)。本書『珈琲の哲学』にも、さまざまな「愛」が描かれる。コーヒーへの愛、人間の少女に恋をした一匹の「ゴキブリ」の愛、異性愛や婚姻関係の枠組みに、かならずしもはまらない愛――それらの「愛」が多様であればばあるほど、ディーの世界は一つの普遍を導き出す。ディーの言う「ジャティ・ディリ」を、あえて「アイデンティティー」と訳すならば、バタック人のクリスチャン家庭に生まれ、バンドンで育ち、成人して自ら仏教徒になることを選んだ彼女自身の「アイデンティティーの模索」がその創作の背景としてあるのだろう。

 本書所収の作品が綴られた1995年から2005年にかけての10年間は、「レフォルマシ」を挟んで、インドネシアの社会が民主化やグローバル化、消費文化の浸透や情報の氾濫の中で急速な変容のさなかにある時代だった。エンターテインメント界の実践者であった作者自身や、本書に登場する主人公たちはみな、そうした時代の先端に生きる若者たちであり、彼らのライフスタイルの描写――プライバシーの保たれた生活空間、気ままなフットワークを可能とする移動手段の所有など――は、それ自体がインドネシア文学の世界において新鮮なものであった。しかし、本書で繰り返し描かれているのは、そうした彼らの空間的自由とはうらはらの「内なる空間の葛藤」である。既婚者との恋愛にとらわれ、内なる牢獄につながれる者(「一切れのパウンドケーキ」)、決して遂げられない、それでも消せない「恋心」を抱えて戻ることのない旅路に向かう者(「ラナの憂い」)、誰よりも近いひとの、踏み込めない感情のラインを前にただただ戸惑う者(「歯ブラシ」)――生活空間の快適さや自由さとは無関係に、彼らの内なる空間は「どうにもならない」牢獄となる。彼らはそこで、自問自答を繰り返し、やがてひとつの答えにたどり着く。「身体には心があり、心の中には部屋がある。その部屋の鍵はあなたの手に握られている(「心の鍵」)」。

 本書に収められた18編は、SNSやスマートフォン、そしてFree WIFI完備のカフェがインドネシアにも普及する少しだけ前の時代、「アイデンティティー」というものが、まだ「内なる空間」で模索されるはずのものであった時代の若者たちの自問自答の記録であり、人知れず残された「つぶやき」である。

 それにしても、「つぶやき」というものが、誰かに「受信」されることを前提に「発信」され、「いいね」と評価されるものになってしまったのは、いつのころからだろうか。今を時めく「コーヒー・カルチャー」が、目には見えない香りや味わいよりも、フリーのWIFIと「インスタ映え」のするビジュアル空間目当ての若者たちによって成り立っているのも、時代の流れというべきか。

 だからこそ、ジャカルタやバンドンのカフェを訪れる日本の若者たちの手元には、「スマホ」のかわりにどうか本書を携えてもらいたい。気鋭の訳者たちの、研ぎ澄まされた日本語で穿たれた「通気孔」。そこから時を越えて聞こえてくる「つぶやき」に、一杯のコーヒーと共に耳を傾けていただきたいからだ。

引用文献

Dee. 2001. Supernova: Kesatria, Puteri dan Bintang Jatuh. Bandung: Truedee.

Lestari, Dee. 2012. Filosofi Kopi: Kempulan Cerita Dee Lestari 1995-2005. Yogyakarta: Benteng Pustaka.

­­­­­­_____. 2018. Aroma Karsa. Tangerang Selatan: Mizan.

KAPAL運営委員会情報担当より

 今回は、2019年に刊行された『珈琲の哲学 ディー・レスタリ短編集1995-2005』をめぐって、「カパルの本棚」と「カバル・アンギン」の連動企画による2本の投稿を掲載いたしました。

 「カパルの本棚」では、インドネシア文学研究者であり、文学作品の翻訳や映画の字幕制作でも活躍される竹下愛さんに、書評をお書きいただきました。

 また、「カバル・アンギン」では、同書の監訳者である文化人類学者の福武慎太郎さんに、翻訳の背景について寄稿いただきました。

 お二人とも、この作品からインドネシアの現代社会に生きる人々の内面的葛藤が読み取れると指摘されています。文学関係者だけでなくインドネシア社会に関わる多くの方に、双方を合わせてお読みいただければ幸いです。