山下晋司(東京大学名誉教授)

フィールドワークと日記

 今から半世紀近く前、1976年9月から78年1月にかけてインドネシア・スラウェシ島のトラジャでフィールドワークをおこなった。当時、私は大学院社会人類学専攻博士課程の学生で、文部省のアジア派遣留学生としてインドネシア大学に留学していた。ジャカルタで3ヶ月間の語学研修を受け、ジャワ、バリを旅行したあと、1976年9月2日にトラジャに着いた。それから1978年1月14日に離れるまでの1年4ヶ月間をトラジャで過ごした。そのときつけていた調査日記をデジタル化し、関連写真とともに、弘文堂のブログサイト「弘文堂スクエア」(https://www.koubundou.co.jp/square/)に連載を始めた。

 日記はプライベートなものだが、人類学者がどのようにしてフィールドワークをおこなったかということの記録でもある。その意味では、これは1980年代後半以降注目されるようになった「文化を書くこと」についての自省的な記録、あるいはこれからフィールドワークをおこなう後輩たちへのメッセージとしても役立つかもしれないと思い、公開することにしたのである。

 LIPI(インドネシア科学院)に出した調査計画書では、R. ハイネ=ゲルデルンが論じた東南アジアの巨石文化やE. R. リーチの『高地ビルマの政治体系』などに言及しながら、この調査では南スラウェシのサダン・トラジャに関する民族誌的データを収集するとしていた。私は大学院修士課程ではインド・アッサム地方のナガ諸族を含む東南アジア大陸部の山地民の民族誌を研究していたが、当時ナガランドには調査に入ることができず、どこでフィールドワークをしようかと思っていたところ、東京都立大学の石川栄吉先生がトラジャを調査され(1973年)、報告を聞く機会があり、ナガ諸族の文化との類似性に強く印象づけられた。そこで石川先生と相談して、トラジャをフィールドとして選んだのである。こうして、私のトラジャという選択は、インドネシア地域研究というよりきわめて古典的な人類学の関心から生まれた。

トラジャ1976/78 

 しかし、フィールドに入ってみると、1970年代後半のインドネシアの政治的・経済的・社会的・文化的コンテクストにすぐさま直面することになった。この時期はスハルト体制の確立形成期で、国家がトラジャの山奥の村まで浸透しつつあった。総選挙が1977年にあり、1974年地方行政基本法、1979年デサ行政法が制定され、1974年には第2次五か年計画が始まり、ジャカルタのタマンミニのオープンが1975年、教育文化省の「国民文化」の形成=伝統文化記録プロジェクトも始まっていた。トラジャではバリに次ぐ観光地を目指して観光開発プロジェクトが1974年から導入されていた。

 当然のことながら、これらの地域研究的なコンテクストは私の日記にも反映されている。例えば、トラジャ入りして間もない頃に見学した葬儀について、次のように書いている。

 「観光客が多く来ている。観光客もサロン(腰布)を着け、黒衣をまとい、ヤシ酒や豚を運んで葬列に加わる。葬式の主催者で近代主義者の王族プアン・ソンボリンギさんと「未開」を求めてやってくる観光客。実に奇妙な組み合わせだ。葬儀の主催者たちは「1グループ、水牛1頭」と冗談だか本音だかわからぬことを言っていた。ツーリズムという名の資本主義が入り、ここの文化と社会が崩れつつあるのを感じる。子どもたちは外国人に会うと、「ハロー」とか、「ブランダ」(Belanda 「オランダ人」=外国人の意)とか、「トゥリス」(ツーリスト)などと呼びかけ、“Kasih gula-gula”(アメちょうだい)とか、”Kasih uang”(お金ちょうだい)など言ってモノやカネをせびる。彼らからすれば、私ももちろん「トゥリス」だ。」(1976年9月27〜29日)

 この観察は、後日、私のライフワークとなる観光人類学への関心に発展していくことになった。

居住村──メンケンデック郡ティノリン村ミナンガ

 ところで、ランテパオを中心としたタナ・トラジャ県北部とマカレを中心とした県南部では社会体制が異なり、政治的にも文化的にも状況がかなり異なっていた。そうしたなかで、どこに住むかは人類学的な調査にとって決定的に重要な問題だった。なぜなら住む場所が基本的なフィールド経験の場になるわけだから。トラジャ到着後に接したランテパオのトラジャ教会の関係者とは私は反りが合わず、県南部の王族出身のタナ・トラジャ県知事J. K. アンディロロのさっぱりとした性格に惹かれた。そうした「肌感覚」から県南部のメンケンデック郡ティノリン村ミナンガを居住村に選び、トラジャ入りしてちょうど1ヶ月たった10月2日より住み込み調査を開始した。そこには県知事の母親の家があり、美しい彫刻が施されたトンコナン(慣習家屋)が建っていた。そのトンコナンは空き家になっていて、幸いなことに私は無料で借りることができたのである。そこが私のトラジャでの「わが家」となった。

 しかし、1977年5月に総選挙が行われ、選挙キャンペーン期間中(3月〜5月)は村に住むことができず、県庁所在地であるマカレに住むことを余儀なくされた。これは予期せぬ出来事であったが、日中は村に行くことは自由だったので調査への支障はさほどなかった。むしろマカレの都市生活も経験できたのは収穫だった。3月末にはスハルト大統領もトラジャにやって来て、総選挙は当時の与党ゴルカルの圧勝に終わった。いずれにせよ、インドネシアの総選挙がトラジャの地方レベルでいかにおこなわれるかを観察できたことは大きな収穫だった。

 ティノリン村 (Desa Tinoring) という村の枠組みは、1969年に導入された新しい枠組みだった。1906年に始まるオランダの植民地統治以来、トラジャ社会は幾多の行政的な変遷を経ていた。オランダ統治期および日本統治期(1942〜45年)を通して、トラジャはパロポを中心としたルウ県の分県 (onderafdeeling)であった。インドネシア独立後、1957年にタナ・トラジャ県 (Kabupaten Tana Toraja)が成立し、新型デサ制度(desa gaya baru)が1969年に実施され、デサ・ティノリンが生まれたのである。私がティノリン村ミナンガで調査を始めたのはその7年後である。

 しかし、トラジャでの調査を終えて20年後1998年のスハルト政権崩壊後の地方分権化とアダット復興運動のなかで、新型デサ制度/1979年デサ行政法は否定され、デサ・ティノリンは2002年に廃止され、2008年にはタナ・トラジャ県からランテパオを中心とした北トラジャ県が分離した。現在は、トラジャ語で「村」や「クニ」を意味する「レンバン」 (lembang)という言葉が復活し、旧ティノリン村はブントゥ・タンティとケペ・ティノリンという2つのレンバンに分かれている。その意味では私が描いたティノリン村はすでに「歴史資料」になったのかもしれない。

伝えたいこと

 さて、この調査日記の公開を通して私が伝えたいポイントは3つある。第1に、民族誌データというものは「収集される」のではなく、調査のプロセスを通して「作られる」ものだということである。LIPIに提出した私の調査の目的はトラジャの民族誌データの収集ということだったが、現地に行ってもそこにデータがころがっているわけではない。データというものは現地の人びととのインターラクションやさまざまな出来事を通して形成され、作られるものなのである。民族誌的研究とは、調査のプロセスのなかで出会う(あまり計画されていなかった、しばしば偶然の)出来事をデータに変えていく方法である[1]Fujii, L. A. 2015. Five stories of accidental ethnography: Turning unplanned moments in the field into data. Qualitative Research 15 (4): 525-539.。日記はその日その日の出来事の記述を通してデータが形成されていく過程を記録している。

 第2に、当時の私の調査テーマは儀礼(とりわけ死者儀礼)で、「儀礼があると聞けば出かける日々」が続いた。その成果は『死の人類学』(内堀基光と共著、1986年、弘文堂。2006年、講談社学術文庫)や『儀礼の政治学──インドネシア・トラジャの動態的民族誌』(単著、1988年、弘文堂)などにまとめられたが、そのエッセンスを一言で言えば、トラジャ社会の儀礼的構成の動態的解明ということになる。つまり、トラジャ社会には私が「儀礼共同体」と呼んだ儀礼執行のための実践的共同体がその中核にあり、儀礼の執行によって社会が動態的に構成されていくのだ。このテーゼに向けてデータが形成されていったのである。

 第3に、こうした民族誌データは、調査終了後も、書きかえられ、更新されるということである。その意味ではデータは閉じられておらず、開かれているのである。たしかに当時の県知事J . K. アンディロロ、家主プアン・ミナンガなど日記の登場人物の多くは死んでしまった。毎日井戸から水を汲んできてくれた当時少女だったルケも今では孫をもつお婆さんである。しかし、日記を読み返してみると、忘れられていた過去が、新しい問題として蘇ってくる。つまり、過去は終わっておらず、新しくなるのは、未来ではなく、過去の方なのだ。

 このように見たとき、私の半世紀前の日記は「終わった人」の回顧録ではなく、未来に向けたメッセージとなる。調査日記を公開する理由はここにあり、多くの皆さんに読んでいただき、一緒に過去を新しくしていきたいと思っている。


脚注[+]