中村昇平
(日本学術振興会 特別研究員PD)
久納源太
(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 院生)
ジャカルタで本屋といえば、グラメディアをはじめとした大手書店がまず思い浮かぶ。スハルト退陣後、出版業界は自由度を増した。しかし、実際には大手書店が出版・販売両面で市場シェアの大半を占め、以前にはそうした書店の片隅にあった専門書のスペースも段々と狭くなっているように見える。その一方で、市場規模からいえば小規模な出版社や書店が、学術書・専門書の刊行と流通においてはますます重要な役割を担うという状況がある。今回我々は、ジャカルタにおける学術出版の事情を知るために、コムニタス・バンブー社(Komunitas Bambu)とチャ・タルノ書店(Cak Tarno)という二つの小規模出版社・書店を訪れた。前者は直訳すると「竹林コミュニティ社」、後者は「タルノさんの書店」を意味する(「チャ」は東ジャワで用いられる敬称)。
専門書を出版する―コムニタス・バンブー社の場合
「インドネシアの作家の大半は、著作がグラメディアに売られるようにならなければ一人前ではないと考えている。」そう話すのは、一社目に訪れたコムニタス・バンブーの創設者で、郷土史家としても知られるジェージェー・リザル氏(通称バン・ジェージェー)である。彼の言葉は、現代インドネシア社会における出版業界の現状を端的に説明しながら、小規模書店の存在意義を主張しているようにも聞こえる。
コムニタス・バンブーのオフィスは、デポック市ののどかな住宅地の一画にあった。鬱蒼と茂る木々に囲まれた三階建ての木造建築は、リザル氏の自宅と本の倉庫も兼ねているようである。中では十数人の従業員が働いていた。
コムニタス・バンブーは、通貨危機の只中にある1998年5月20日、「国民覚醒の日」(Hari Kebangkitan Nasional、ブディ・ウトモ創立日)に創設された。学生や研究者などの仲間どうしが集まって、「危機」が発生してしまったのはなぜかと議論していたところから、コムニタス・バンブーは文字通りコミュニティとして始まったという。この「コムニタス」が共有していたのは、通貨危機をはじめとした国難の背後には、「インドネシアらしさ(ke-Indonesia-an)とは何か」をめぐる「価値観の危機」(Krisis Nilai)があるという問題意識だった。
コムニタス・バンブーの創設理念は、スハルト政権による歴史認識の操作によって「消されてきた」人々の声に目を向け、「インドネシアらしさ」の忘れられた側面を再評価することだったという。その背景には、スハルト体制が権威的支配の正当性を維持するために、経済的資源のみならず、知の資源、すなわち歴史をも支配してきたという創設者たちの認識があった。創設以来、コミュニタス・バンブーは左派の独立運動家や華人の運動と闘争の歴史、犯罪者集団とされた人々の反抗の歴史、女性史、ジャカルタを含む地方文化・社会史、海民の歴史などに焦点をあて、インドネシア語の著作の出版や外国語著作の翻訳を手掛けてきた。
こうした書籍の出版を通して、「誰それの妻」と名指され、個人として扱われることが少なかった女性の歴史を掘り起こし、また、インドネシア闘争史において決して「別の人たち(orang lain)」ではなかった華人の姿を再確認し、陸地の開発を制限する境界線とだけ見なされてきた海の世界の歴史に目を向け、「インドネシアとは何か」を問い直してきた。例えば、2013年に出版されたマルク史に関する書籍には、18世紀末にマルクのスルタンがパプアの一部地域までをも巻き込んでオランダ東インド会社の市場独占に対抗した歴史が描かれている。この書籍の出版の背景には、パプアとマルクの関係を見直し、ひいてはインドネシアにおけるパプアの位置付けを歴史的な観点から再認識するという思惑があったとリザル氏は言う。(https://komunitasbambu.id/product/pemberontakan-nuku-persekutuan-lintas-budaya-di-maluku-papua-sekitar-1780-1810/)
翻訳に関しては、リザル氏らが自ら調査し、著者または出版社に依頼をしているとのことである。日本人研究者の翻訳本はまだ少ないが、日本を含むアジア人研究者の視点は、欧米からの視点とは異なる興味深い議論を提示してくれるとのことだったので、今後増えることが期待できるだろう。
流通に関していえば、小規模経営により自由で独創的なテーマの書籍の出版が可能になっているが、大手会社が出版兼販売市場を支配している状況下では、販売ルートを確保するのが困難になっているという。コムニタス・バンブーも近年、販売手数料の大幅な値上げが原因で某チェーン書店での販売を中止した。こうした状況下で、インターネット上の販売とともに重要な流通ルートになっているのが、小規模経営の書店を通した販売だという。専門書出版の流通を支えているのは、数冊単位で書籍を入荷する個人経営の書店なのである。
専門書を販売する―チャ・タルノ書店の場合
そうした独自経営を行なう書店のひとつに、次に訪れたチャ・タルノ書店がある。チャ・タルノ書店はインドネシア大学人文学部構内の食堂の裏に、コーヒー店もかねた小さな店舗を構えている。我々が昼過ぎに書店を訪れると、店主のタルノ氏(通称チャ・タルノ)はまだ不在であった。コーヒーを買い、店前の庭のベンチで談笑していると、しばらくしてタルノ氏が現れた。すると、近くにいた学生たちも集まってきて、いつの間にかクリフォード・ギアツの著作についてのディスカッションが始まっていた。ジャワ人社会をめぐる議論がひとしきり落ち着くと、今度はタルノ氏の生い立ちや経歴へと話題が移っていった。
ディスカッションの中心にいるタルノ氏は、中学を卒業後、故郷のモジョクルトで小作や土木の仕事を転々としてきたという。その後、1997年にジャカルタに来てクイタンで本の小売りを始めたことが、彼と本との出会いだった。しかし、当時の彼は本を単なる製品としてしか見ていなかったという。この意識は、製品として出来の良いモノであれば売れる、という商売の実感にもとづいたものだった。1999年に独立して本の移動販売を始めても、只々あらゆる本をかき集めて売るだけで、本を開いてその中身を読んだことはなかったのだという。
しかし、そんな彼にとって、2002年に人文科学系の本のサプライヤーに委託販売を頼まれたことはその後の人生を変える転機となった。販売を頼まれた本は学生たちによく売れた。それまでただ本を売るだけだったタルノ氏であったが、なぜそんなに売れるのかと疑問を抱くうちに本の内容に興味を持ち、次第に自分でも読むようになった。そのうち買いに来る顧客と本に関して議論するようになり、それが学生や教員のあいだでも噂となって、本屋がディスカッションのハブとして発展し店舗を借りられるようになったという。2005年以降、彼の本屋は人文社会系の教員らの後援をうけ、定期的に研究会をひらく場となった。
「本はシンボルとしての魅力がある。」自身の本屋の原点を振り返って、タルノ氏は言う。初めは本をただの売り物として見ていたタルノ氏も次第に本の中身に惹きつけられていった。さらに、そんなタルノ氏に惹きつけられた人々が集まり、本について語る場としてチャ・タルノ書店をつくりあげた。彼が言う本の魅力とは、商品としての価値を超えた、知を共有するための「シンボル」としての本を指すのだろう。こうした経緯があったからだろうか、彼は、本を読むことによって得られる知識だけでなく、会話や議論を通して得られる理解や学びに重きを置く。本の販売だけに頼らずとも人が集まりさえすれば一定の収益が上がるようにとカフェを併設した経営方針もまた、彼の本屋としての哲学の反映だろう。
今回訪れたコムニタス・バンブーとチャ・タルノ書店は、小規模店ながらそれぞれの信念をもって出版・販売に携わっていた。国家が押し付ける歴史解釈をはねのけ、かき消された声を取り戻そうと取り組み続けるバン・ジェージェーと、本を愛する人々に議論の場を提供し続けようとするチャ・タルノ。彼らの取り組みは、大手出版・書店とは異なる、小規模経営ならではの道を切り拓いている。彼らの歩みは、デポック市に限らず、バンドンやジョクジャカルタといった都心を離れた地方で小規模ながら垣根を超えた知の共有の場となっている出版社・書店の社会的意義に通じるものがあると言えよう。