阿部 和美(秋田大学)

 このエッセイは、パプアの現状をより広く知っていただくために、パプアについての研究を始めたきっかけ、そして調査を実施する過程で感じた内容を述べています。現在パプア地域は5州から構成されていますが、調査は当時2州で構成されていたパプア地域(パプア州と西パプア州)で実施しました。なお、研究成果は『混迷するインドネシア・パプア分離独立運動』(明石書店、2022年)をご参照ください。

 2010年末、初めてのインドネシア滞在のついでに、滞在中に知った分離独立運動が存在するパプアという地域に寄って帰ろうと思い立った。友人の知人の知人の親戚というほぼ他人、ジャヤプラでビジネスを手がけるジャワ人を頼ってパプアに向かったが、覚えたばかりのインドネシア語はなんとか日常会話をこなせる程度。今思えば、ずいぶん無茶な試みであった。ジャカルタから深夜便で6時間ほどかけてジャヤプラに早朝に到着し、名前を呼ばれて乗り込んだジャワ人のおじさんの車から寝ぼけ眼で見た景色は、少なくとも私が見てきたインドネシアとは全く異質の世界だった。抜けるような青空と、肌が黒く縮れ毛の人々。学部時代に訪問した東アフリカを彷彿とさせた。

 ジャワ人のおじさん一家は大きな商店を営んでいて、彼らの生活もお客さんも、いかにもジャワ的であった。現地では、インドネシア東部のフローレス島から移住した父親とパプア人の母親を持ち、パプアで育った女性人権活動家が私を案内してくれた。毎朝おじさんの家に迎えに来てくれる彼女とおじさん一家の間には、なんとも言えない距離感があった。もちろん険悪な雰囲気ではないが、お互い決して踏み越えようとしない一線が確かに存在していた。私のインドネシア語では多くの会話ができないので、「おじさんと彼女が直接私の予定について話をしてくれた方が助かるのに」と、当時はその程度に思っていた。

 あれから10年以上が経ち、ジャヤプラの様子も大きく変わった。ジャワ人が営む食堂や屋台がそこら中にあり、スーパーやホテルもずいぶん増えた。開発が進み、ジャワとパプアを行き来する人も増えて、とても活気がある。他方で、店員にもタクシーの運転手にもパプア人はほとんどいない。町中でも、あまりパプア人を目にしなくなった。ジャヤプラ以外の県でも、比較的大きな町では、町の中心部を離れてしばらく車を走らせないとパプア人に出会えないこともある。外国人の私としては、パプア人が町の中心部から追いやられた感がある。パプア州よりも移民の比率が高い西パプア州では、そのような印象を一層強く受ける。もちろん、ジャワ人の商店や食堂に来るパプア人もいることはいるが、ありふれた光景ではない。そのように町中でたまに見かけるパプア人は、どこか遠慮がちに生活しているように見える。闊歩するパプア人は、政治家くらいだろうか。もっとも、彼らは車で移動をするので、歩いているのを見かけることはないが。

ジャヤプラのメインストリート(筆者撮影)

 ジャカルタにいると、パプアについて耳にするのは分離独立を掲げる反政府集団に関するニュースくらいである。ジョグジャカルタでは、パプア出身学生は無銭飲食をするとか、お酒を飲んで暴れるという話をよく耳にする。パプアについて聞いても、暴れるとか武装集団に関する噂以外にはほとんど知られていない。私の印象では、多くのジャワ人にとって、「パプアはインドネシアだけどよく知らない怖いところ」である。ジャカルタやジョグジャカルタ、バリで学ぶパプア人は少なくないのに、さぞ生活しづらいだろうと思う。実際に銃撃戦があるような地域はパプアのごく一部であるし、パプアで一般的な生活をしていれば、外国人や移民が分離独立運動を意識することはないだろう。ホテルで出会った、仕事で一時滞在中というジャワ人は、「来る前は怖かったけど、パプア人も好意的だし、パプアはジャワと変わらないいいところだね」と言っていた。表面的には、それが現在のパプアである。

 実際はどうなのだろうか。私が出会った多くのパプア人が、増加する移民と急速な開発に危機感を抱いている。スハルト政権時代には、ジャワの農民をパプアに移住させる移民政策が実施されていた。スハルト政権崩壊後、ビジネスチャンスを求めてパプアに移住するブギス人やマカッサル人が増加している。さらに、ユドヨノ政権後期からパプアの開発が推し進められてジョコウィ政権でその進度が加速すると、職を求めてパプアにやってくる移民が急増するようになった。

 パプア人が守ってきた先祖伝来の土地は事実上強制的に取り上げられ、伝統的な暮らしを営むことが難しくなっている。分離独立については、諦めているか諦めていないかという違いはあるにしろ、多くの人が望んでいることは疑いようがない。ともあれ、多くのパプア人は現状を受け入れて暮らしている。その現状とは、空港やショッピングモールなど至る所に銃を持った軍人がおり、人権活動家などの行動が常時監視されているという状況である。デモ参加者が逮捕・発砲されたり、深夜に活動家が連れ去られて行方不明になったりという事件が頻発するパプアで、果たして安穏と暮らせるだろうか。

ジャヤプラ市アベプラのパプア人のマーケット(筆者撮影)

 パプアの問題はこれだけではない。スハルト政権崩壊後、パプアでは特別自治が付与されて、地方自治体の首長と職員をパプア人が占めるようになった。パプア人の政治参画は大きく前進したものの、地方自治特別資金を初めとする巨大な利権をめぐる争いが熾烈になり、選挙不正や汚職が蔓延している。パプア地域の予算は大幅に増加しているにもかかわらず、貧困率はインドネシアでもっとも高い状態が続いている。

 私は東ティモールでの滞在経験があるが、東ティモールの人々とパプアの人々の大きな違いは、その表情である。東ティモールの人々も決して豊かではないが、若い国の明日に燃えているというか、なんだか目が輝いている。一方、パプアの人々の表情は暗い。それは貧しさ故か、抑圧されて自由を奪われている故か。

 パプアにはジャワをはじめとする各地からの移民、そしてパプアで生まれ育った移民も増えている。ショッピングモールでジャワ料理を楽しむパプア人家族や、テレビでジャワ発のドラマを楽しむパプア人も増えている。政府の奨学金によって、ジャカルタやバリの大学に進学するチャンスも増加した。しかし、10年前に私が感じた「一線」は、まだ歴然と存在しているのではないか。それは、パプアで進められる開発や武装集団の取り締まりに対するパプア人と移民両者の認識のギャップを生み出し、双方の不信や不満は差別行為や人権侵害行為、大規模な暴動として表出する。この「一線」を越えてどのように歩み寄ることができるのか。パプアの将来の扉を開く鍵は、きっとそこにある。

町から遠く離れた道路脇にもバクソ屋台。バイクで立ち寄るパプア人の若者も少なくない。(筆者撮影)