川村晃一(アジア経済研究所)

選挙を現場で観察する

 私が選挙の投開票の様子を初めて現場で見たのは、1999年の総選挙でした。1998年の民主化でスハルト大統領が辞任した後に最初に行われた選挙です。この時の投票所の雰囲気はいまでも忘れられません。投票所には早朝から有権者が列をなし、投票後には周辺の住民が夜遅くまで開票作業を見守っていました。この日、投票所は「自由な選挙」を楽しむ人々の笑い声で溢れていました。

 それ以来、5年に一度の選挙の日は、朝から晩まで必ず投票所で1日を過ごすことにしています。2004年の選挙からは、在外研究で滞在したジョグジャカルタ特別州内の投票所で投開票の様子を観察することが習慣になりました。2024年2月の選挙当日も、いつものようにジョグジャカルタの投票所を1日めぐっていました。

(写真1)投票所の前に張り出された立候補者のリストを眺める有権者

投開票の作業はどのようなものか?

 投票は朝7時から始まりました。すでにその時点から多くの人が投票所に集まっていました。有権者の波は10時頃までがピークで、12時頃には投票に来る人もまばらになり、13時に投票が締め切られました。民主化から25年以上が経ち、1999年のような熱狂した雰囲気はもはやありません。それでも国全体の投票率はおおむね70%以上を維持しています。今回の投票率も81%に達しました。

(写真2)投票所に来場後、投票の順番を待つ有権者

 日本では投票が終われば投票箱を公立の体育館などに運び、1カ所で開票が進められます。それに対してインドネシアでは、投票が終わったばかりの投票所ですぐに開票作業が始められます。これは、移動中に投票箱が奪われたり、投票用紙が差し替えられたりといった選挙不正を防ぐための方策なのです。昼休みの休憩をはさんで13時半頃から、早くも投票所で開票作業が始まりました。

 1カ所の投票所の有権者数は約300人です。しかし、2019年から大統領選と議会選(国会上下院、州議会、県/市議会)が同日に実施されることになったため、投票箱は5つあります。そのひとつひとつについて、まず投票用紙の数の確認がされます。投票済みと未使用の投票用紙の合計が運び込んだ数と同じか、投票済みの用紙の数は投票所に来た人の数と同じかを確認します。

 次に、開票作業に入ります。候補者や政党ごとに大きな模造紙が用意されて、それを壁に張り出します。議会選の場合、政党の数が18にもなるうえ、各党の比例名簿も記載されているため、投票用紙は新聞紙大にもなります。その投票用紙を1枚1枚広げ、投票所監督員や政党から派遣された監視人と確認しながら誰に投票されたのかを読み上げ、その結果を模造紙に記入していきます。

(写真3)投票箱に投票用紙を入れていく有権者。選挙ごとに色分けがされていて、投票用紙の色と同じ色の投票箱に入れていく

 簡単なように思われますが、この作業は想像以上に大変です。大統領選は立候補者が少ない(2024年は3組)ので大したことはないのですが、議会選は参加政党が多いうえ(2024年は18政党)、「非拘束名簿式比例代表制」を採用しているため、有権者は名簿順に関係なく個々の候補者に投票します。ちなみに、2024年の下院(国民議会、DPR)選挙の立候補者数は全国で9917人でした。

 開票が終わったら候補者ごと、政党ごとに集計を行い、模造紙に数字を書き込みます。その結果に異議がなければ、投票所監督員と政党の監視員が1枚1枚署名をしていきます。最後に、投票所の係員が集計用紙に結果を転記します。さらに、今回からはオンライン集計のために模造紙に書き込んだ結果をスマートフォンで写真に撮り、選管(総選挙委員会、KPU)のシステムにアップロードをしなければなりません。

(写真4)投票先をひとつひとつ確認しながら、丁寧に開票作業が進められていきます

開票作業で死者が出るのはなぜなのか?

 今回私は、この一連の作業にどれくらいの時間がかかるのかを計るため、議会選の開票作業を1つの投票所でずっと見ていることにしました。たとえば、ジョグジャカルタ特別州議会選の開票作業では、1票あたりの開票にかかった時間は約20秒でしたが、すべての票を開けるのに約1時間かかりました。その前後の準備や後片付けなどの時間まで含めると、トータルでは州議会選の開票に2時間半がかかりました。

 私が訪れたのは、ジョグジャカルタの王宮南広場近くに設置された投票所で、投票所係員の半数が女性というところでした。係員の人たちの手際はよく、他の投票所と比べると作業の効率は良いところでした。それでも、単純に計算して、4つの議会選の開票作業には10時間がかかるのです。もちろん、その間に休憩を入れたり、食事をしたり、モスクにお祈りに行ったりという時間が入るので、さらに時間は延びます。私は深夜1時まで開票作業を見ていたのですが、そこで体力が尽きて宿に戻りました。後日聞いたところでは、開票作業は早朝までかかったということでした。そうした投票所はここだけに限らなかったようです。

(写真5)読み上げられた投票先を集計表に記入していきます。すでに係員の顔には疲れの色が

 こうした細かく、正確さを求められる作業を、気温30度前後の暑さのなかで長時間にわたって続けなければならない係員の負担は尋常ではありません。インドネシアの投票所は、集落の集会所や名士の家の庭先などに設置される場合がほとんどです。もちろんクーラーなどはありません。椅子もパイプ製かプラスチック製の簡易的なものです。屋根があればまだましな方で、テントを屋根代わりにするところも多いのです。

 そうした過酷な環境で、長時間の労働にさらされた投票所係員からは、体調を崩したり、亡くなられたりする方が多数出ています。死亡した係員の数は、2019年では894人、2024年には181人だったと発表されています。前回多数の死者を出した経験を踏まえて、今回は55歳未満という年齢制限を設けたり、事前の健康診断を義務づけたりしましたが、問題の根本的な解決にはならなかったようです。

 しかし、彼らは文句ひとつ言わずに、黙々と開票作業を続けていました。手を抜くような素振りを見せたことは一度としてありませんでした。衆人環視のなかで開票作業は行われるため、不正が行われる余地もありません。いまや開票作業を見守る一般の住民の数は少ないのですが、係員に食事や飲み物の差し入れをする人が必ずいます。知り合いでもない、ふらっと立ち寄った日本人に嫌な顔をすることもなく、彼らは温かく私を迎え入れてくれました。

(写真6)夜が更けてもまだまだ開票作業は続いていました

民主主義を支える人々

 投開票の現場を見続けて私がいつも感じるのは、民主主義を底辺で支えてくれているのは、投開票の地道な仕事に真面目に取り組んでくれている彼らのような人々なのだということです。全国82万カ所に設置された投票所で、自由で公正な選挙の実施を担っている574万人の彼らこそ、民主主義の砦なのです。2010年代の後半から、政府による人権軽視の動きが顕在化したり権力抑制機能が低下したりするなど「インドネシアにおける民主主義の後退」が指摘されるようになってきています。それでも、民主主義の根幹である選挙でこうした人々の働きを目にすると、「インドネシアの民主主義はまだ大丈夫」と思えるのです。

 これまで投開票の様子を見ていて不快な経験をしたことはほとんどありません。ただし、アイデンティティ対立が選挙に持ち込まれた2017年ジャカルタ首都特別州知事選と2019年大統領選では政党関係者に誰何されるなど、怖い思いをしたこともあります。「インドネシアの民主主義がどうなっているか」を肌で感じるために、これからも選挙の日の投票所めぐりを続けるつもりです。

(写真の出典)すべて筆者撮影