大木 昌(明治学院大学名誉教授)

 新型コロナウイルス肺炎の世界的大流行(パンデミック)は、令和新時代の幕開け早々、日本社会に突如、強烈な衝撃と恐怖を与え、生活のあらゆる場面に深刻な影響を与えています。私たちは、近代科学(医学)は主要な感染症に関しては概ね対処できていると漠然と思い込んでいます。それだけに、未だに正体が正確には分からない新型コロナウイルスにたいして有効な対抗手段を持ちえないまま感染が広がり、日々発表される感染者と死者の数を目にして私たちは脅えています。これにたいして個人で対応可能なことと言えば、できる限り家に閉じこもり「不要不急」の外出を避け自粛生活に耐えることです。こうして、新型コロナウイルスは、病気そのものとは別に、恐怖と無力感と、欝的気分をも社会の中にまん延させています。今回のコロナ禍は、日本では青天の霹靂のように感じられます。しかし、歴史を注意深くみれば、王国の興亡や英雄の活躍の陰で、あるいは世界をまたにかけた交易活動の陰で、人々はさらに深刻な病の恐怖におののき、それと格闘してきたこと、そして、病との格闘が歴史という織物の一部であることを忘れがちです。

 インドネシアの歴史をみると、いかに多くの人が病、とりわけ感染症によって命を奪われてきたかに驚かされます。史料で確認できる17世紀以降の植民地期についてみると、主な感染症だけでも、マラリア、天然痘、チフス、赤痢、コレラ、ペスト、梅毒などがあり、これらの病は広い地域でまん延し多数の住民の命を奪いました。この他に、原因も病名も不明の、致死性の高い感染症がいくつかの地域で散発的に発生しています。たとえば、1805~1806年にチェリボン(チルボン)で突如“熱病”が発生し、住民の4分の3が死亡しました。この病は発熱から始まり、1週間ほどで痙攣、不規則な脈、震え、飛び跳ねなどの症状が現れると、その日の内に死んだという。この時の住民の対応は、とにかく町から内陸の山地へ逃げることでした。このように危険な病に襲われたとき、現場から離れることが、住民にとってほとんど唯一の方法でした。これは、たまたま現地のオランダ人医師が克明に記録していたために知ることができる事例ですが、おそらくこのような感染症は、あちこちで発生していたものと思われます(注1)。

 ところで、上に挙げた感染症のうち、マラリア、天然痘、チフス、赤痢はインドネシアに古くからあった感染症で、コレラ、ペスト、梅毒は近代以降にインドネシアに持ち込まれた感染症です。ここでは、主要な感染症であった天然痘、コレラ、ペストについて、住民がどのように対応したのかに焦点をあて、西欧医学との遭遇と葛藤という側面も含めてみてゆきます。現在日本人が直面している新型コロナ肺炎よりはるかに致死率が高い感染症にインドネシアの住民が、どのように対応したのかは興味深い問題です。

 まず、天然痘から見てみましょう(注2)。天然痘はインドネシアのどこにでも見られた感染症でした。伝統的には生薬や呪術によって対処してきましたが、特定の地域に集中的に流行する場合には、これらの方法では対応できません。そんな時、人びとは流行が過ぎるのをじっと待ったり、スマトラのパレンバン地方で起こったように、病を引き起こした悪霊を追い払うために村の外に寺院や小屋を建てて感染した子どもたちをそこに隔離したり、あるいは最後の手段として村を捨てて出て行ってしまうなどの行動をとりました。このような天然痘の隔離場所はほかの地域、たとえばジャワにもあったようです。有名なプラムディアの小説『すべての民族の子』には、少女が天然痘患者の隔離場所に行き、自ら感染して復讐の相手に感染させる話が登場します(注3)。

 植民地政府は1804年に種痘を導入しますが、当初はしばしば住民の抵抗にあいました。種痘はアッラーから与えられた体に傷をつけるから、という宗教的理由で反発し、またある地域では現地人官吏やイスラム指導者が子どもたちへの種痘を禁じるなどの事例もありました。さらに、種痘への反発は噂という形でも表面化しました。たとえば、植民地政府の本当の目的は、種痘の際に呪文をかけ、それを受けた住民を軍隊にとってしまうことだ、との噂が流れ、種痘を行うスタッフがやって来ることが分かると住民が山や森の中に逃げ込んでしまうこともありました。また、種痘のためと称して子どもたちを集めているのは、彼らをオランダ人州理事官が要塞の中で飼っている大きなワニの餌として与えるためだ、と言う噂もありました。これらの噂は事実ではなかったが、そのこと自体住民の植民地政府に対する反感と西欧医学に対する不信感の強さを物語っています。また、種痘がたんに未知であるというだけで拒否されることもありました。

 政府は、現地のスルタンやエリート、さらにはイスラム指導者を説得して粘り強く種痘の普及に努めました。そして、1840年にスラウェシ島の一部で天然痘が大流行し、多くの人が死んだ時、人びとはようやく種痘を受けるようになりました。こうした政府側の努力と、時には警察力を動員してまでも種痘を受けさせる強硬な政策の積み重ねもあって、種痘を受けた人数は19世紀後半から増えはじめ、1880年代にはジャワで年間60万人、1900~1908年には80万人、1930年代末には140万人が種痘をうけました。この背景には、現地人医療者(ドクトル・ジャワ)の育成と、彼らの活躍が接種の普及を大いに助けました(写真1)。こうした過程を経て、ジャワでは天然痘による死者は年間数百人、多くても1000人以下に減少しました。


写真1 少女に種痘をするドクトル・ジャワ(出典
: Weerzien met Indie. Zwolle: Uitgeverij Waanders. 1996. p.639)

 次に、コレラについてみてみましょう。1817年に勃発した第一次コレラの世界的大流行(パンデミック)は、1821年、中部ジャワの港町スマランに到達し、たちまちジャワ各地に広まりました。当時現地にいたオランダ人医師によれば、コレラの症状がでると人は半日程度で死んでいったといいます。この流行が続いた1年間の死者は数万から数十万人まで諸説あり正確には分かりません。第一次の流行の際の致死率は分かりませんが、後の流行時には、感染者の致死率が50~60%、時には80%にも達しました。このため、住民は高い致死率をもつ未知の感染症を非常に恐れました。しかし、コレラには伝統医療では対処できず、コレラが猛威をふるった地域の人びとはパニックになり一部は病人を置き去りにしたまま森の中に逃げ込んでしまいました。

 政府は「コレラ混合液」や「コレラ・ドリンク」(生薬と酒精剤)を配布したり、腹の上に温湿布を乗せたり、衰弱にたいしてヤシ酒を与えたり、瀉血を施したり、様々な処置を試みましたが、全く効果はありませんでした。住民は西欧医学にたいする失望と反感を抱き、あるオランダ人医師は住民から治療をしないで放っておいて欲しいと言われた、と報告しています。コレラは1851年に再びインドネシアで大流行しました。この時、政府統計では数万人の死者がでて、致死率も40%でしたが、実際には死者数も致死率もこれらよりずっと多かったと推定されています。住民の間には過去の恐怖がよみがえり、前回不評だった「コレラ・ドリンク」を求める人が増えました。

 その後もコレラはインドネシア各地で流行しましたが、20世紀に入り、政府は井戸の消毒や汚染場所を消毒し、検疫のために監視所を設け、汚染地域に通じる道路も遮断するなど、積極的な対策を講じました。そして、1911年にジャワで予防注射用のワクチンが生産されるようになり、翌年から無料で配布されました。政府の報告では、ワクチンはかなり効果があり、住民から喜んで受け入れられたといいます。しかし、ジャワ以外ではまだまだ政府への反発が強く、1909~13年にスマトラ南東部のジャンビでコレラが流行した時、政府の医療スタッフは交通の遮断や感染者を出した家屋を焼くなどの処置を強行したため住民は抵抗し、警察官1人を殺害し3人に傷を負わせました。この地域の住民は、コレラのように恐ろしい病は超自然の力による懲罰であり、その疫病の克服には超自然の能力をもつ現地の呪術医(ドゥクン)に委ねるべきだ、と信じていました。同じころ、バリ島でも予防注射の実施は住民の抵抗にあっています。あるオランダ人医療スタッフは、「多くの村で村民が毎晩集まり、悪霊を追い払うために大きな物音をたてていた」(注4)と報告しています。これも、政府と西欧医学にたいする抵抗の表現です。

 次にペストについてみてみましょう。1911年、ジャワのスラバヤに到着した船によってペストに感染したネズミとシラミがもちこまれ、これがジャワにおけるペスト流行の発端でした。これ以後1939年までの30年間に3度の大流行が発生し、この間に政府の記録では215,000人が死亡しました。ペストの死亡者数はマラリアやコレラよりずっと少なかったのに、インドネシアの人びとにとっては未知の病であり、オランダ人にとっては中世ヨーロッパで荒れ狂った恐怖の記憶をよびおこす恐ろしい病でした。このため、政府は避難と隔離、道路の封鎖や交通の制限、検問所の設置(写真2)、ネズミが巣をつくらないように家屋の建て替えや藁ぶき屋根から瓦屋根への改装、消毒、清掃、ワクチンの注射、死体の検死解剖など、ありとあらゆる措置を強行しました。

写真2 ペストの監視所(出典
: Weerzien met Indie. Zwolle: Uitgeverij Waanders. 1996. p.747)

 これらの中で、とりわけ住民の反感をかった措置は、死因がペストの疑いがある場合に確認のために脾臓や肺を切開して針を刺して組織の一部を採って行う検死解剖でした。しかし、ペストの疑いがない場合にも検死解剖を行ったことも、住民の反感を強めました。死んでも魂は生きていると考える住民にとって、とりわけ親族にとって検死解剖は死者を冒涜する、想像を絶する野蛮な行為と映ったに違いありません。このため、検死が行われる前の夜に親族が夜にこっそり死体を取り返して自分たちで埋葬する“密葬”も珍しくありませんでした。このペストに関連した検死に関しては植民地期の終わりまで、住民は反感を持ち続けました。また、家の焼却や建て替えに際して、政府は損失を計算し、所有者に補償することになっていましたが、その補償額にたいしても住民は不満をもっていました。政府の措置にたいしてではありませんが、ワクチン注射の際、針が刺さった時に住民が感じた恐怖と驚愕は非常に大きかったようで、住民は最初のうち注射に強い拒否反応を示しました。しかし、発症からごく短時間で死亡してしまうペストへの恐怖の方が大きかったようで、注射も徐々に受け入れられてゆきました。

 以上みたように、住民は一方で高い致死率をもつ感染症にたいする恐怖を抱きながらも、伝統医療では対処できない実情を抱え、他方で植民地政府が提供する近代医療にも全面的に頼ることができないジレンマの中で、抵抗を示しつつ後者を少しずつ受け入れていったのです。ところで、ここでは天然痘、コレラ、ペストなど主として感染症に関する事例を取り上げていますが、歴史の中の病と癒しを考える場合、それら以外の日常的な病の問題も重要です。たとえば、ジャワで農地の拡大が進み、裸地化した土地が増えたため、風で飛ばされたほこりで眼病を患い失明する人が増えました。あるいは、森林の開墾過程で、素足で森に入ったため、足に傷を負い破傷風に感染する人も増えました。都市への人口集中により、トイレや下水処理の普及が間に合わず、下痢や慢性的消化器系疾患がまん延してゆきました。こうした問題も含めて、インドネシア史における病と癒しの問題を、もう少しマクロ的の社会経済史的な枠組みの中に位置づけ総合的に検証してゆく必要があると考えています。

(注1)Dorssen, J. M. H. van, “De Koortsepidemie te Cheribon in 1805,” Geneeskundig Tijdschrift voor Nederlandsh-.Inidië. (Batavia: Javasche Boekhandel & Drukkerij). 66 (1926): :488-9

(注2)以下の記述の大部分は、拙著『病と癒しの文化史―東南アジアの医療と世界観―』(山川出版社 2002)に基づいています。

(注3)プラムディア・アナンタ・トゥール『すべての民族の子』にも登場します。これついては書評を参照。https://blog.goo.ne.jp/tani_kazuya/e/a31433528799639b78738e74fc2e1e5e

(注4)Angelino, Kat P. de, “De Hygiëne, de ziekten en de geneeskunst der Baliër,” TBG 59(1919/21):221.