佐野洋輔(早稲田大学)

カリマンタンで調査中の笹岡さん
(2016年、宮内泰介さん撮影)

はじめに

 2025年4月9日、笹岡正俊さん(北海道大学教授)が、ご病気のため53歳で逝去されました。笹岡さんは、セラム島、スマトラ島、カリマンタンで精力的なフィールドワークを展開し、インドネシアに関するたくさんの著作を残されました。カパルとの縁も深く、2019年度と2024年度には運営委員を務められました。

 2025年7月27日、早稲田大学にて「笹岡正俊さんを偲ぶ会」が開催され、笹岡さんの同級生や後輩、共同研究者、同僚、元指導教員、学生などが笹岡さんとの思い出を分かち合いました。オンラインでインドネシアから参加された方々を含め総勢150名近くが参加し、にぎやかで温かい会となりました。研究者、教育者、活動家、そして父親として慕われていた笹岡さんの姿が浮かび上がる時間でした(当日の様子はこちらでご覧いただけます)。

 また、同年9月7日には、「笹岡正俊さんを偲ぶ会」発起人会が追悼サイト「笹岡正俊さんを記憶する」を公開しました。追悼サイトでは、笹岡さんの著作一覧仲間たちからの追悼文が掲載されています。追悼文は現在も受け付けております。ご寄稿されたい方は、是非こちらより追悼文をお寄せください。

 笹岡さんのインドネシア研究者としての歩みは、おおむね次の四つの時期に分けることができます。

①熱帯林破壊の問題をめぐる学生運動を契機としてインドネシアと出会った時期

②セラム島において、野生動物利用・管理の研究と紛争避難民の支援活動に取り組んだ時期

③スマトラ島の土地紛争問題をめぐり、研究とアドボカシー活動を展開した時期

④カリマンタンの小規模金採掘による環境汚染問題について、実践的研究を志向した時期

 本稿では、笹岡さんの著作の一読者であり、また、カリマンタンで笹岡さんと共同研究に取り組んできた筆者が、偲ぶ会の参加者やご遺族から伺ったお話をもとに、これら四つの時期に即して笹岡さんのインドネシア研究の歩みを辿ります。読者の皆さまには、ご自身の研究の歩みと重ね合わせながらお読みいただければ幸いです。

笹岡さんの残された著作
(笹岡こはぎさん提供)

インドネシアとの出会い(1991年~1995年)

 1971年、笹岡さんは広島県広島市に生まれます。旧可部町という、里山と清流に囲まれた自然豊かな地域で、川釣りなどを通じて自然に親しみながら育ちました。1989年、高校3年生の笹岡さんは、夏休みに一人旅で西表島を訪れます。西表島では、民宿での住み込みアルバイトで一緒になった東京の大学生たちと仲良くなり、夏休みが終わってもしばらく高校をサボって西表島で過ごします。広島では学問とは無縁の「やんちゃ」な生活を送っていた笹岡さんでしたが、西表島でともに過ごした大学生たちに感化され、大学進学を目指すようになります。

 1991年、1年間の浪人生活を経て、笹岡さんは東京農工大学農学部へ入学します。入学後は、学内で「自然保護研究会」という学生団体を立ち上げて、そのころ話題となっていた東南アジアの熱帯林破壊の問題に取り組み始めます。当時から正義感が強く「活動家気質」であった笹岡さんは、学内で度々演説を行い、学生たちから署名を集めて自治体へ熱帯木材の使用停止を求める活動を展開しました。この活動の中で、笹岡さんは、井上真さん(現・早稲田大学教員)が1991年に著した『熱帯雨林の生活―ボルネオの焼畑民とともに』(築地書館)という本に出会います。カリマンタンの焼畑社会での長期フィールドワークをもとに熱帯林破壊の問題を論じたこの本に感銘を受けた笹岡さんは、入学当初に志望していた野生動物の生態研究ではなく、熱帯林で野生動物とともに暮らす人びとの研究を志すようになります。

 1995年4月、東京農工大学を卒業した笹岡さんは、研究生として東京大学大学院農学生命科学研究科の林政学研究室に入ります。同研究室で当時教員を務めていた井上真さんの下で研究を始めるためでした。この年の10月、井上真さんの調査に同行する形でセラム島を訪れ、のちに博士論文の舞台となる山地民社会との出会いを果たしています。

初めてセラム島を訪れた笹岡さん[写真左]
(1995年、井上真さん[写真中央]提供)

 

セラム島の野生動物利用・管理の研究(1996年~2014年)

 1996年、笹岡さんは前述の林政学研究室の修士課程へ進学します。修士課程の間、笹岡さんは、インドネシア大学文学部に留学してインドネシア語を学んでいます。また、1998年にはセラム島を二度訪問し、山地民社会における野生動物の利用・管理に関する研究の予備調査を進めています。

 1999年、笹岡さんは同研究室の博士後期課程へ進学します。しかし、いよいよ本格的なフィールドワークを始めようとした矢先に起きてしまったのが、アンボン島におけるイスラーム教徒系住民とキリスト教徒系住民との諍いに端を発し、「宗教」紛争としてセラム島を含むマルク諸島全域へと拡大したマルク紛争でした。スハルト政権崩壊直後の1999年から2002年まで続いたこの紛争は、約70万人の避難民を生み、少なくとも5,000人が命を落としたと言われています。

 この紛争を前にし、笹岡さんはセラム島でのフィールドワークを一時的に断念します。しかし、調査地を変更して研究を続けるのではなく、紛争によって生まれた避難民の支援活動に身を投じる道を選択しました。笹岡さんは、村井吉敬さん(上智大学名誉教授)が設立したインドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)のメンバーとして、銃弾の飛び交う非常事態宣言下のアンボン島やセラム島を訪れ、支援活動や紛争取材を行っています。そして、紛争の内実を伝える記事を、『週刊金曜日』や『世界』などの日本の言論誌に寄稿するとともに、インドネシアの日刊紙にもインドネシア語で寄稿しています。

 2001年、笹岡さんは、この「宗教」紛争の発生と拡大に対するインドネシア軍や政治家の関与を問う編著『流血のマルク―インドネシア軍・政治家の陰謀』(インドネシア民主化支援ネットワーク/コモンズ)を刊行します。その一方で、この間、博士論文のためのフィールドワークが全くできないまま、2002年には博士後期課程を単位取得退学しています。

 2002年、笹岡さんは、インドネシア科学院(LIPI)の社会文化研究センター(PMB)に日本学術振興会の海外特別研究員として着任します。やっと紛争が落ち着いたことから、2003年から2005年にかけて、セラム島で精力的にフィールドワークを行っています。そして、この時期のフィールドワークで収集したデータをもとに、2008年に博士論文『ウォーレシア・セラム島における野生動物利用・管理の民族誌―「住民主体型保全」論にむけて』を完成させ、東京大学より学位を取得します。博士論文の一部は国際誌Ecology and Societyへ掲載され、同誌の年間最優秀論文に与えられるRalf Yorque Memorial Awardを受賞するなど、笹岡さんの研究は海外でも高く評価されました。

 2012年、この博士論文をもとに上梓したのが単著『資源保全の環境人類学―インドネシア山村の野生動物利用・管理の民族誌』(コモンズ)でした。この本では、ローカルな文脈に埋め込まれた多面的な人と自然のかかわりあいを「上から、外から」の力で単純化する「シンプリフィケーション」の問題を鋭く批判しています。そして、セラム島山地民社会における野生動物の利用・管理を民族誌として丹念に描き、日々の獣肉の分配が「生を充実させる営為」として存在すること、現金を得るための希少オウムの「密猟」が困窮期の生活を支える「救荒収入源」となっていること、祖霊や精霊による「超自然的強制メカニズム」によって野生動物の持続的利用が維持されていることを明らかにし、シンプリフィケーションに抗する住民主体型保全のあり方を提案しています。

 2010年から2013年にかけては、笹岡さんは博士研究員として国際林業研究センター(CIFOR)に勤めています。CIFORの本部のある西ジャワ州ボゴール市で生活し、CoLUPSIA(Collaborative Land Use Planning and Sustainable Institutional Arrangements in Indonesia)プロジェクト(研究代表者:Yves Laumonier)のメンバーとして、セラム島での研究を続けました。この時期には、これまでの調査をもとに多数の論文を出版したり、前述の単著を出版したり、山地民が創り出してきた二次的自然が希少オウムの生息地となっていることを示そうと新たに「参加型トランセクト調査」を実施したりと、充実した研究生活を過ごしています。

 その後は、2014年3月を最後にセラム島を訪ねられていないようでしたが、調査地の人びととの交流は続けられていました。2016年から共同研究で笹岡さんと一緒に過ごすことの多かった筆者は、笹岡さんがセラム島の調査地の子どもに学費を送金したり、その子のことを心配してその子の両親と電話で話したりする様子を何度も目にしました。

セラム島で調査中の笹岡さん
(2012年、笹岡こはぎさん提供)

スマトラ島の土地紛争問題の研究(2014年~2024年)

 2013年、笹岡さんは日本に帰国し、北海道大学大学院文学研究科(現・文学研究院)に環境社会学の教員として着任します。そして、2014年に調査地をセラム島からスマトラ島に移し、産業造林事業に起因する土地紛争問題の研究を開始しました。土地紛争問題というテーマは、笹岡さんが長年セラム島で取り組まれていた野生動物の利用・管理の民族誌的研究とは大きく異なります。笹岡さん自身も、環境社会学の二大研究領域に沿って、セラム島での研究は「環境共存の社会学」で、スマトラ島での研究は「環境問題の社会学」なのだと説明しています。学部生時代に熱帯林破壊の問題を入り口にインドネシアに関わるようになった笹岡さんは、インドネシア研究者として自らがかかわるべき環境問題を探しており、その候補の一つとして産業造林事業の問題に関心を持っていたようです。そのような経緯があり、NGOとしてこの問題に取り組んでいた熱帯林行動ネットワーク(JATAN)の原田公さんから誘いを受けた笹岡さんは、2014年に二人でスマトラ島の産業造林事業地を訪ねています。この訪問で土地紛争の実態を目の当たりにし、以降、原田さんと共にスマトラ島に通うようになります。

 スマトラ島では、ジャンビ州と南スマトラ州の2つのフィールドで研究を展開します。

 ジャンビ州では、世界有数の総合製紙メーカーであるAPP(Asia Pulp and Paper)グループの産業造林事業によって農地と森林を奪われたある村の多面的な被害を調査しています。そして、企業が自主的に問題解決に取り組むというAPP社の「森林保護方針」をめぐる動きを「自主規制型ガバナンス」として描き、多様な利害関係者の協働による自主規制型ガバナンスの「進展」が被害の解消ではなく不可視化をもたらしていることを論じています。この調査の過程では、笹岡さんたちがインタビューをした活動家の一人インドラ・プラニさんが、その半年後に産業造林企業の警備員に撲殺されるという悲惨な事件が起きています。

 南スマトラ州では、丸紅株式会社の子会社であるMHP社(Musi Hutan Persada)の産業造林事業地内で「不法占拠者」として暮らし、のちに強制排除されて避難民となった人びとについて、この人びとが「不法占拠者」となった背景を調査しています。そして、「不法占拠者」を生んだ背景には、将来の人口増加を考慮していなかった産業造林型移住事業の制度的欠陥や、「不法占拠状態」を黙認してきた企業の不十分な事業地管理があったことを論じ、そうした背景を無視して「不法占拠者」個人にのみ責任を帰する政府や企業の姿勢を批判しています。さらに、笹岡さんは、論文でこの問題を議論するだけでなく、JATANらNGOとの連名で企業に対して公開質問状や要望書を提出するなど、避難民の生活再建への支援を求めるアドボカシー活動も展開しています。

 この時期、笹岡さんは、スマトラ島でフィールドワークを進める傍ら、藤原敬大さん(九州大学教員)と共に「熱帯林ガバナンス研究会」を組織しています。研究会では、インドネシアの熱帯林管理をめぐる問題に関わる研究者やNGO職員を招いて議論を重ね、2021年には研究会の成果として共編著『誰のための熱帯林保全か―現場から考えるこれからの 「熱帯林ガバナンス」』(新泉社)を刊行しています。この書籍では、熱帯林保全のために整備された新たなガバナンスの仕組みが何をもたらしているのかが、そこに生きる人びとの視点から描き出されています。

笹岡さんが学会発表や講義で使用していたプラニさん殺害抗議デモの写真
(2015年、ジャンビ州、笹岡さん撮影)

カリマンタンの小規模金採掘の研究(2017年~2024年)

 2017年からは、科研費「ボルネオ中央部の生態系保全に向けた制度設計―ローカルとグローバルを繋ぐ」(研究代表者:井上真)の研究分担者として、カリマンタンの小規模金採掘についての調査も開始しています。住民が簡易的な道具で金を採掘する小規模金採掘では、金の精錬過程で水銀が使用されることが多く、世界各地で深刻な水銀汚染が生じています。笹岡さんは、同じく水銀汚染に起因する日本の水俣病事件をめぐる問題を講義の中で繰り返し取り上げてきたこともあり、2016年にカリマンタンでの予備調査で目にした小規模金採掘に強く興味をひかれたようでした。

 カリマンタンでは、2017年から2020年にかけて、内陸部のダヤック人の村で近年導入された高圧放水ポンプを用いた小規模金採掘が村の暮らしにどのような影響を及ぼしているのかを調査しています。そして、この村の人びとが、生計向上を重視しつつも、周辺環境の劣化を避けようとしながら、微妙なバランスで生活を維持してきたことを明らかにしています。この研究については、2023年のカパル第5回研究大会で、「水銀汚染リスク軽減に向けた課題―カリマンタン島内陸部における小規模金採掘を事例に」という題目で報告されています。

 カリマンタンでの調査は、笹岡さん、ラトゥナ・プルバさん(元ムラワルマン大学教員)、筆者の3人で一緒に進めてきました。2024年3月、笹岡さんにとって最後となってしまったインドネシア調査でも、3人でこの村を訪れています。この訪問の際には、村の公会堂や高校等で研究報告会や水銀汚染問題啓発ビデオの上映会を開いています。これらの会は、これまでの研究成果を少しでも調査地の人たちに還元し、今後の暮らしを考えるための材料として役立ててもらいたいという、笹岡さんの強い希望で開かれたものでした。

 2025年2月には、笹岡さん自身が研究代表者を務める科研費「環境破壊的小規模金採掘からの脱却―応用地域研究による実践知の共創」が採択され、同年4月から5年間の共同研究プロジェクトが始まる予定でした。このプロジェクトは、小規模金採掘による水銀汚染問題が深刻化している一つの村を対象に、問題の様相を多面的に明らかにした上で、その村に暮らす人びととともにアクションリサーチとして問題解決に取り組むことを目指した、笹岡さんにとっても新たな挑戦となるプロジェクトでした。しかし、笹岡さんは、プロジェクトの開始を目前に病状が悪化し、その志半ばで帰らぬ人となってしまいました。

カリマンタンの調査村で研究報告会をする笹岡さん[写真右](2024年、筆者撮影)

おわりに

 笹岡さんは、一貫してインドネシアの森林地域に暮らす人びとに寄り添い、環境をめぐる構造的問題に立ち向かってきた研究者でした。また、誰と話すときでも、相手の言葉に静かに耳を傾け、自らの熱い思いを率直に語る、日本でもインドネシアでも多くの人に愛された、人としての深い魅力を備えた方でした。これから研究や実践を益々深めていかれたであろうことを思うと、本当に残念でなりません。しかし、笹岡さんが遺された数多くの著作を礎として、仲間たちがその遺志を引き継いでいくことと思います。

 北海道大学では、笹岡さんの指導のもと、3名のインドネシア研究者が博士学位を取得しています。バンカ島のスズ採掘事業をめぐる問題を研究されたイスマ・ロシダさん(現・ファイナル・インターナショナル大学教員)、ティモール島西部の製塩事業をめぐる問題を研究されたアルフィアン・ヘルミさん(現・ボゴール農科大学教員)、そしてカリマンタンの野生動物保全をめぐる問題を研究された澤井啓さん(現・日本学術振興会特別研究員)です。

 私生活では、インドネシア民主化支援ネットワークの活動を通して出会われたこはぎさんと結ばれ、二人のお子さまに恵まれました。2023年にはご家族でコモド島を旅行されるなど、インドネシアと深い縁で結ばれた人生でした。心よりご冥福をお祈りいたします。

カリマンタンの食堂でクローブ煙草を燻らせながら語る笹岡さん
(2018年頃、筆者撮影)

〔付記〕

 笹岡正俊さんは、2018年12月に行われたカパル設立記念の第1回研究大会において、セッション「小農と商品作物栽培」の司会を務める形でカパルの船出に参加されました。それを機に2019~20年にかけて運営委員となってカパルの最初の数年を支えてくださいました。2023年の第5回研究大会では、カリマンタンの小規模金採掘における水銀汚染リスクとその軽減に向けた取り組みについて、佐野さんと共同で、臨場感あふれる報告をされました。カパル運営委員会では、笹岡さんに再度、カパルの運営、とりわけ研究大会のプログラム編成に加わってほしいという声が上がり、2024年から笹岡さんは運営委員として11月の第6回研究大会の準備に尽力されました。しかし、研究大会の直前に入院され、入院先から11月末に、入院が長引きそうなので運営委員を退任させてほしいとのメールを直接くださいました。笹岡さんはこのように、持ち前の情熱とエネルギーをカパルの運営に対しても注いでくださったのです。

 カパルの皆さんと共に、笹岡さんのご冥福を心よりお祈りいたします。

 そして笹岡さんがこれから手掛けようとしていた研究が日本やインドネシアの多くの仲間たちによって引き継がれていくことを願ってやみません。

カパル代表 佐藤百合