小野林太郎
(考古・人類学、国立民族学博物館)
インドネシアを舞台に進展する研究は実に多様だ。それはインドネシアという多島海域が多様性に満ち溢れているからだろう。海によって互いに隔たれた無数の島々は、固有の生態環境を形成し、それぞれの多様性を深めてきた。これらの島に暮らす人々の文化や言葉、社会もまた多様性に満ちている。同時にインドネシアの人々は、国家から家族・個人までの様々なレベルで互いに繋がってもいる。そんな海を越えた多様なネットワークを持つインドネシアのような社会を、私は「海域ネットワーク型社会」と呼んできた。じつは地球上を見渡しても、ネットワークの歴史的深度と多様性においてインドネシアに匹敵する例をみつけるのは難しい。
私たち現生人類、ホモ・サピエンス種の大きな特徴は、その移動性と、言語を用いた情報交換によるネットワーク性にあるといわれる。実際、約600万年間におよぶ人類史の中で、地球全域への移住と拡散に成功したのは私たちサピエンス種のみだ。環太平洋圏を形成するオセアニアやアメリカ大陸への進出は、いずれもサピエンスによって達成された。それを可能にした鍵の一つとされるのが、長距離渡海の技術革新である。
オセアニア圏にあたるオーストラリア大陸への人類移住は、約5万年前まで遡ると考えられている。オーストラリアへの移住には、最低でも80㎞の海を渡る必要があり、現時点ではこれが人類最古の長距離渡海の痕跡となる。世界地図を広げれば一目瞭然だが、この渡海の出発点と想定されるのが、インドネシアや東ティモールからなる島々だ。近年、インドネシアの島々が人類学的に大きな注目を浴びつつある理由も、私たちサピエンス種による海洋適応というテーマと密接なかかわりがある。また時代的にはより新しい、オーストロネシア語族による移住と拡散においても、インドネシアの島々は注目されてきた。
私は考古・人類学を専門としつつ、インドネシア地域研究に取り組んできた。その研究テーマの一つが、インドネシアの島々への人類移住と海洋適応史である。考古・人類学の面白いところは、先史時代から現代まで、様々な時代を同時に対象にできるところだ。その気になれば、人類史全体をカバーできるのも魅力である。移住や海を越えたネットワークというテーマは、先史時代のみならず、現代インドネシアを紐解く上でも重要なテーマであろう。
しかし各時代の事例をすべて紹介している紙面的余裕はないので、今回は先述した先史時代の渡海による人類の移住や海洋適応に関する事例を紹介したい。というのも、人類最古の渡海に関する痕跡が見つかっているのがインドネシアだからだ。これは私たちサピエンスではなく、フローレス島でみつかった約80万年前の原人時代のものである。ジャワ原人で知られるように、インドネシアの人類史は原人の時代までさかのぼることができる。原人が見つかっている地域は、アジアではまだ中国とインドネシアしかない。
更新世代(5~1万年前頃)の多島海域へのサピエンスの移動想定ルートと主な遺跡群
フローレス島のLiang Bua遺跡(地図上のやや下方真ん中)では、極めて小型のフローレス原人も発見された。ただし80万年前にフローレスにたどり着いたのはジャワ原人の仲間で、彼らがその後に島嶼化してフローレス原人になったとの仮説が現在は優勢だ。いずれにせよ、80万年前もフローレスは島だった。当時、ジャワ島まではユーラシア大陸から陸路で到達可能だったが、フローレスにたどり着くには約20㎞の渡海が必要だったと想定されている。原人も海を渡ったのだ。
その後、5万年前頃までにこの地に到達した私たちサピエンスは、さらに遠方の島々へも移住し、オーストラリアやニューギニアまで達した。ティモール島で私がオーストラリア国立大のチームと行った研究では、やはり世界最古となる4万年前のマグロ利用の痕跡が見つかった。遊泳速度の速いマグロを、当時の人々は一体どのように捕獲したのだろうか。最も効果的な漁法は釣りだが、その直接的な痕跡はまだ見つかっていない。それでもマグロを捕獲し、利用していたという痕跡は、当時の人々がすでにある程度の海洋適応を果たしていたことを雄弁に物語っている。
インドネシアには無数の島々がある。現在、私はスラウェシ島からマルク諸島にかけて、サピエンスたちがいつ頃までに海を渡り、島々へと移住し、適応したのかを調べるべく、発掘を続けている。日々が新たな発見の連続だが、島ごとに多彩な文化や適応が見られるのは、先史時代でも同じだ。多様で豊富な人類の足跡をもつインドネシアは、今後も人類史研究に大きく貢献していくことだろう。なお私の研究に興味をお持ちの方はhttp://www.minpaku.ac.jp/research/activity/organization/staff/ono/indexの主要業績を参照していただければ幸いである。