インドネシアにおけるイスラーム復興の実情とその動態を、「構造主義」と「混成性」をキーワードに生活世界の日常性から紐解く一冊

荒木亮著 『現代インドネシアのイスラーム復興――都市と村落における宗教文化の混成性』弘文堂、2022年2月、304頁、5,500円(税込)、ISBN:9784335161032

荒木亮(東京都立大学・博士研究員)

 わたしはインドネシアの宗教文化を、イスラームや土着の慣習をめぐる人々の日常性に着目した文化人類学的な視点から検討してきました。これまでの研究活動を総合し出版した拙著の内容を、わたし自身の現地調査の経験などを交えつつ簡単に紹介させていただきます。

調査のはじまり:インドネシアとイスラーム復興を調査対象としたきっかけ

 わたしが初めてインドネシアに赴いたのは2011年3月のことです。社会人類学の大学院・修士課程に進学後、調査対象地域を決め切れずに悩んでいたところ、当時の指導教員より「アジア農村研究会」によるインドネシア調査に参加する機会をいただきました。そしてこの経験が、インドネシアを調査地域に定めイスラーム(復興)について研究しようと考えるきっかけとなりました。

 調査中、一際目を引いたものが、若い女性が身にまとうヴェール(ジルバッブ)でした。わたしのイスラーム社会に対するイメージは、中学生の頃に目にした「9.11」の衝撃とそれにまつわる報道の影響が強く、イスラーム教徒(ムスリム)は原理主義者で、原典主義的・非世俗的に、宗教教義や規則に拘束されて生きているのだろう、というものでした。加えて、ムスリム世界に広くみられるイスラーム復興という宗教リバイバルが、インドネシアでは大凡1980年頃より顕在化してきたと言われています。けれども、滞在を通じてわたしは、現地の若い女性たちが、ファッションの一部としてカラフルなヴェールを好んで選んでいる、という日常を垣間見ました。そして、このささやかなお洒落にときめくと同時に抱いたカルチャー・ショックを、その後に探求したいと考えるようになりました。すなわち、イスラーム社会とそこでのムスリムの日常が必ずしも「原理主義」に通じるものではないのではないか?と感じたことが調査研究のきっかけです。

本書の前提と視座:インドネシアにおけるイスラーム復興の展開(序章)

 長らく独裁体制を敷いてきたスハルト政権崩壊後、2000年代のインドネシアは、個人主義や(ネオ)リベラリズムに代表される欧米由来の近代的な思考、および、資本主義や大衆消費文化といった経済システムが、都市部に住む中間層を中心とした現地の人々に急速に浸透していきました。また地方社会では、地方分権化の流れのなかで地域や民族に根差した伝統文化を再興する機運が高まりました。

 このように、より「自由」になったと思えるインドネシア社会では、しかしながら、あるいは、だからこそ、個々人の言動において自己を正当化する際にイスラームが持ち出される、もしくは、参照されることが多くなりました。この点は本書の事例と分析において詳述しておりますが、都市中間層にみられる「顕示的な消費(/海外旅行に行く)」や「お洒落(/ファッションに興じる)」に際して、そこにイスラーム的な要素や要因を挟み込むことで他者からの羨望や嫉妬の回避が試みられること、また、村落社会においても非一神教的な要素を含む伝統文化を再興・実施する際に少なくとも表面的にはイスラームの教義に反する行為と見做されないよう細心の注意が払われている、といったケースが現地社会の日常ではみられます。すなわち、現代インドネシアのイスラーム復興では、イスラームが社会・個人双方のレベルで言動の「正しさ」や「正当性」を担保するものとして前景化してきたと考えられるのです。

 こうした状況を現地の実情に即して捉えるべく、本書では社会人類学者の大塚和夫が提出した「宗教化」と「世俗化」の「混成」という視点に依拠しつつ議論を進めました。先述したように、今日的な時代の流れにあってインドネシアのとりわけ都市部においては、消費文化に代表される欧米近代的なライフ・スタイルに憧れを抱く者の増加がみられると同時に、ムスリム世界の潮流としてイスラーム復興が浸透していきました。そこで、「世俗化(欧米化)」と「宗教化(さらなるイスラーム化)」という一見異なる二つの「望み」を同時に叶える日常的な営みを、「混成性」(という〈構造〉)として捉える視座を持ちつつ、本書では、現地の事例の読み解きを試みました。

第Ⅰ部の内容:都市部におけるイスラーム復興の「混成性」(第1章~第3章)

 先に述べた視座から、本書の第Ⅰ部では都市でみられるイスラーム復興にまつわる3つの事例を分析的に整理しました。具体的には、第1章では2000年代にインドネシアで絶大な人気を誇ったアア・ギムという説教師を取り上げたわけですが、彼は、例えば、保守的なウラマーとは異なり、男女関係に対するリベラルな考え方に理解を示すなど、単に世俗的・欧米近代的価値を否定することはせず、イスラーム的な行動や振る舞いをシンプルなかたちで提示するという「斬新な」イスラームのあり方を説くことで人々から絶大な人気を得ました。つまり、アア・ギムという存在あるいは彼の説教とは、欧米近代的な消費文化を指向する「世俗化」と敬虔なムスリムであることを志向する「宗教化」という異なる価値の併存や両立を可能にする「混成性」を備えた「イスラーム的なるもの」ということです。

 また、第2章ではウムラと呼ばれる聖地巡礼をめぐる現地社会の実情を分析的に整理することで、渡航費が高額であろうとも巡礼に赴くムスリムの敬虔さ(「宗教性」)と顕示的消費によって自らの威信を担保すること(「世俗性」)、そのような一見相反する目的を同時に果たす行為あるいは消費の対象としてウムラという宗教実践が捉えられていることを明らかにしました。

 さらに、第3章で着目したカラフルなヴェールやイスラーム服を着用するムスリマの増加は、着用するという行為それ自体が個々人の「宗教化」を示す一方、ファッション性の追求といった異なる目的(「世俗化」)を同時に果たす「混成」的な現象であると解しました。

 このように第Ⅰ部では、イスラーム復興を「混成性」という視座から分析することで、ともすれば「さらなるイスラーム化/宗教化」という文脈に還元し一義的に捉えてしまいがちな「イスラーム的なるもの」や「宗教的な商品」の多義性を現地の文脈を踏まえ具体的に明らかにしました。

第Ⅱ部の内容:都市と村落から考える「混成性」の〈構造〉(第4章~第5章)

 第Ⅰ部の議論を通じて、本書では現代インドネシアのイスラーム復興を具現化したさまざまな出来事に「宗教性」と「世俗性」との「混成性」という〈構造〉が見出せることを明らかにしました。しかし、主に都市中間層にみられる「宗教的な商品」や「イスラーム的なるもの」の受容や消費の高まりからイスラーム復興を論じるという議論の射程は、果たして村落社会を理解する際にも有用であるのか、という疑問が生じました。より具体的には、次に述べるような、相対する二つの「霊的現象」をめぐる「儀礼」の場面に巡り合った経験を通じて、これまでの考え方が変化しました。

 第Ⅱ部の舞台となる西ジャワ州の調査村K村は、州都バンドゥン市の周辺に位置し、住宅開発やインフラの整備、また、都市からの移住者の増加を背景に近年拡大傾向にある都市圏に取り込まれつつあります。そうしたことから都市で広まるイスラーム復興もますます浸透するようになっているのかと思いきや、K村では、クダ・ルンピン〔kuda lumping〕と呼ばれる非イスラーム的な要素を含む「憑依儀礼」が村の若者を担い手として再興しているという現状を垣間見ました(第4章)。この背景には、先述したように、スハルト政権崩壊後に進展する地方分権化を契機に顕在化してきた、広くはインドネシアの各地域や民族のあいだで共通にみられる伝統や文化の復興運動を示す事例と捉えられます。

 ただし、憑依を誘発するような儀礼は一般的にイスラームの教義に反するものであると理解されることから、ムスリムである村人が憑依儀礼を行うことは宗教(イスラーム)という点で問題を孕んでおり、実際に村人のなかでも高学歴の者や都市からの移住者などはこうした儀礼行為をイスラームの教義に基づき批判的に捉えています。加えて、着目すべきは、この儀礼を実施する村人たちも自らの行いが「非イスラーム的な要素を含む」ことに自覚的であり、いわば再帰的に儀礼を実施しているという点です。そこで第4章では、調査村の村人たちの多様な認識を論じました。

 続く第5章では、第4章の事例とは相反する「儀礼」、すなわち「憑依現象」を排する動きや実践の事例を取り上げました。K村ではルキヤ〔ruqyah〕と呼ばれるイスラーム式の「除霊儀礼」がイスラーム指導者によって執り行われています。イスラーム指導者によると、「霊がいる場所を通ること」、「祈祷師・邪術師によって悪い霊を送られること」、また、「(「憑依儀礼」のように)霊を呼び寄せる儀礼に参加すること」などによって人々は霊に憑かれることがあり、憑依された場合、当人は心身に不調を感じるなどの症状が出るとともに、それがイスラームを信仰する上での妨げになると捉えられています。そうしたことから、K村には「憑依儀礼」を批判的に捉えて、霊に憑かれないためにイスラームの教えに沿って日頃から敬虔に生きることを心掛け、定期的にルキヤを受ける者もみられます。

 けれども、「除霊儀礼」を施術される者の語りや日常的な実践に関する整理と分析を通じて、「憑依」という半ば不可避的な現象を前にすると、どれほどイスラームの教えに沿って「敬虔さ」を志向したとしても必ずしも「憑依現象」を回避できない、という現地の実情が明らかになりました。そこで第5章では、調査村の人々が、根源的には、イスラーム的に「正しい」状態と「正しくない」状態とが入り交ざる日常を不可避なものとして生きている、と結論付けました。

本書の論点と特徴

 以上が、本書を執筆する背景や執筆にあたってのわたしの認識、および、各章で扱った事例に関する簡潔な紹介となります。さいごに、本書の論点や特徴を簡潔に示すと次の通りです。

 本書は、第Ⅰ部で都市・中間層のあいだで繰り広げられる大衆消費文化における「宗教化」と「世俗化」の「混成現象」としての「イスラーム復興」を論じたうえで、第Ⅱ部では都市の周辺に位置する、拡大傾向にある都市圏に取り込まれつつある村落とそこでのローカルな営みを事例として取り上げて議論を進めました。その結果、第Ⅰ部で見たようにイスラーム復興の「混成性」が「宗教化」と「世俗化」という固定化された二つの「要素」の「混成」として限定的に捉えられるわけではない、ということを第Ⅱ部の議論に基づき示しました。すなわち、「憑依儀礼」と「憑依現象」という事例のように、現地の日常においてはイスラーム的な「正しさ」と「正しくはない」という状態とが併存する、という「混成性」を見出すことができるのです。

 さて、こうしたイスラーム復興の現象の仕方とその多様な在り方を具体的に明らかにすることができたのは、都市と村落を対象とするとともに、双方を構造主義ないしは構造分析という視点から整理し民族誌としてまとめた、という本書の特徴が挙げられます。すなわち、本書の意義は、「混成性」という〈構造〉をどちらにも見出しつつ都市と村落との対比、あるいは構造主義の用語で言えば「要素」の「変換関係」を確認することで、現代インドネシア社会におけるイスラーム復興の多様な展開とそのメカニズムを明らかにした点にあると考えています。こうしたポイントにも着目しつつ、ご関心のある方は、ぜひとも本書を手に取り読んでいただければ嬉しく思います。