ジャワ派遣第十六軍宣伝班や郷土防衛義勇軍(ペタ)幹部教育隊の一員として日本軍政に参加した後、インドネシア独立軍に身を投じ、壮絶な戦死を遂げた市来龍夫(インドネシア名:アブドゥル・ラフマン)の生涯を描く。日本とインドネシア関係史において、忘れてはならない歴史に焦点をあてた名著の新版。

評者:小川忠(跡見学園女子大学 教授)
後藤乾一早稲田大学名誉教授の名著『火の海の墓標―ある〈アジア主義者〉の流転と帰結』(時事通信、1977)に大幅な加筆・修正が施されて、『火の海の墓標-草莽のアジア主義者・市来龍夫とインドネシア』(めこん、2025)として再びよみがえった。
市来龍夫という人物をご存じだろうか。私は、旧版『火の海の墓標』で彼と出会ってから、日本とインドネシアの相互理解の来し方、行く末を考える時、心のどこかで「市来ならどう考えるだろう」と問うてきた。特に国際交流基金ジャカルタ日本文化センターに駐在し、仕事に迷いが生じた時(1989-93、2011-16)には、日本とインドネシアのパートナーシップのあるべき姿を追い求め続けた彼の生きざまをふりかえって、自分の発言と行動の指針にしていた。
めこんの新版『火の海の墓標』ウェブサイトが、市来の生涯を以下の通り簡潔に解説している。
「不況下の昭和初期、海外雄飛の夢を抱いてオランダ領インドネシアに渡った市来龍夫は「一等国民意識」に染まった典型的な日本青年だったが、植民地の底辺の生活に心の安らぎを得るうちに、次第にインドネシア民族運動に共感を覚えていく。
彼にとって、「大東亜戦争」と日本軍政はインドネシア独立を支援する存在であり、軍政に参加することは無上の喜びであった。しかし、日本のホンネは資源獲得にあり、独立の約束はウソだった。そのことに気づいた市来は祖国に裏切られた思いに苛まれる。
日本の敗戦後、市来はアブドゥル・ラフマンと名を変えてインドネシア独立軍に身を投じ、神出鬼没の遊撃隊の隊長としてオランダ軍とゲリラ戦を闘うが、1949年1月、東部ジャワ、スメル山南麓で壮絶な戦死を遂げる。」
新版『火の海の墓標』は、熊本県人吉の没落士族の家に生まれた市来の「彷徨の少年時代」(第一章)、一家再興の夢を抱いてインドネシアに渡りパレンバン、バンドンで市来が奮闘する「渡南の道」(第二章)、戦前日本の南進政策やアジア主義者の動きを叙述した「『国策』」と『アジア解放』のはざまで」(第三章)、インドネシア独立に向けて日本軍政への期待が失望へと変わっていく市来の苦悩を描いた「日本軍政を見つめて」(第四章)、日本の敗戦後インドネシア独立軍に身を投じ東ジャワの山中で壮烈な戦死をとげるまでの市来の行動を追った「アブドゥル・ラフマン・イチキの流転と帰結」(第五章)、によって構成されている。
新版には、旧版発行以来の50年間に格段の進展を遂げた日本・インドネシア関係史の研究や史資料整備の成果が、ふんだんに盛り込まれている。一例をあげると、ジャワ郷土防衛義勇軍(インドネシア国軍のルーツ)の幹部教育隊嘱託だった市来の部下アブドゥル・ラフマン氏が、旧版『火の海の墓標』公刊を知って後藤へ送った書簡が紹介されている。同書簡からは、「日本人」であることをやめ、「インドネシア人」としてインドネシア独立軍に身を投じる直前の、市来の逡巡と決断する姿が、映画の一シーンのように浮かび上がってくる。また敗戦後から戦死に至るまでの市来の足取りに関しては、「最後のインドネシア残留日本兵」であったラフマット・小野盛の膨大な記録を整理した林英一編・小野盛著『インドネシア残留日本兵の社会史―ラフマット小野自叙伝』(龍渓書舎)等の資料が参照されている。
大幅改訂によって、より重厚な歴史書となった新版『火の海の墓標』だが、変わらないのは、時勢味方せず志なかばにして斃れ、歴史の大河の彼方へ消えていった「敗者」に対する、後藤の哀惜のまなざしだ。後藤は「アジアの中の近代日本」の通史的、学際的研究を専攻する研究者として一貫して、そういう視点から歴史を見つめてきた。『「沖縄核密約」を背負って』の若泉敬、『「南進」する人びとの近現代史』の勢理客文吉、『われ牢前切腹を賜る』の玉蟲左太夫といった、英雄中心の歴史のなかで顧みられることもなく忘れ去られてきた挑戦者の志に焦点をあてる後藤史学の原点が旧版『火の海の墓標』であり、新版においてもその哀しみを含んだまなざしは変わることがない。
これからの日本とアジア諸国の交流を担う若い世代にこそ、本書を読んでもらいたい。
