ムスリム大国の中のマイノリティ・ムスリムによるアイデンティティの模索――国民国家形成期のインドネシアにおけるアラブ系住民のイスラーム運動
山口元樹著『インドネシアのイスラーム改革主義運動――アラブ人コミュニティの教育活動と社会統合』慶應義塾大学出版会、2018年、296頁、6,912円(税込)
山口元樹
(東洋文庫研究員)
カパルの本棚では自著を取り上げることも認められていますので、ここでは博士論文を基に昨年出版した自分の本を紹介させてもらうことにしました。19世紀後半以降、イスラーム世界の復興を目指して純粋なイスラームへの回帰とイスラームと近代文明の調和を掲げる運動が様々な地域で起こります。本書はインドネシアにおけるこの改革主義運動について、イルシャード(アラビア語で「導き」の意)という団体を中心に論じています。この団体はインドネシアのアラブ人によって結成され、近代的なイスラーム教育の普及に取り組みました。本書は同時代の新聞・雑誌を主な史料として用い、この団体の教育活動からアラブ人の社会統合について考察しました。
アラブ人は華人ほどには研究者の関心を集めてきませんでしたが、インドネシア社会の中でユニークな立場を占めてきました。すなわち、彼らは民族的には外来系マイノリティでありながら、宗教的には社会の多数派に属しているのです。20世紀前半にプリブミ(現地住民)の間で形成されたインドネシア人概念から外来系住民は排除されていたと理解されています。その一方、アラブ人はイスラームによってプリブミ社会と緊密に結びついており、20世紀前半のイスラーム改革主義運動で顕著な活躍をしています。本書はインドネシアのイスラーム改革主義運動の研究であると同時に、この地のアラブ人の歴史を専門に扱った日本語で初めての研究書でもあります。
インドネシアのアラブ人のほとんどは、アラビア半島南部ハドラマウト地方に起源を持つハドラミーと呼ばれる人々です。これまでの研究では、イルシャードはハドラミーの団体という民族的な側面が強調されてきました。20世紀前半のアラブ人社会では、インドネシア人意識の形成と並行してハドラミーのアイデンティティが先鋭化していき、ホスト社会から分離していったと論じられています。これに対し本書の議論は、イルシャードのイスラーム改革主義団体としての重要性を示すとともに、アラブ人がホスト社会に統合されていく過程や要因を明らかにするというものです。そこで着目したのが、この団体の設立者・指導者でありながら、ハドラミーではなくスーダン出身の改革派のウラマー、アフマ ド・スールカティーです。
本書の特色としては、アラブ地域との関係性を具体的に分析している点があげられます。スールカティーの思想の特徴を検証するために、アラブ地域の改革主義の思想家との比較を試みています。スールカティーはイスラームにおいてすべての信徒が対等な立場にあるという「平等主義」を強調しています。これ自体は改革主義者に共通して見られる傾向ですが、スールカティーはアラブ地域の改革主義者と異なり、アラブ主義的な傾向を示さない点が特徴的です。彼の「平等主義」は領域的な対象をインドネシアに限定したものに変容し、イルシャードがインドネシア社会に統合される上で決定的な役割を果たしました。
東南アジア海域世界では、近代になると人種や民族といった概念が台頭し、前近代の特徴であった流動性と多様性のある外来者に開かれた社会は失われていったとされています。しかし、本書の分析では、国民国家が形成される時期にもアラブ人が複合的なアイデンティティを維持し、最終的に宗教的な紐帯に基づいてインドネシア社会に結びついていったことが示されています。このような内容は、インドネシアのイスラーム研究やアラブ人研究に限らず、外来系住民全般、さらにナショナリズムの研究の発展にも貢献するものと考えています。