聞き手: 大久保翔平(東京大学・教務補佐員)

モデレーター:山口元樹(京都大学)、工藤裕子(東洋文庫・研究員)

「インタビュー:先達・先輩と語る」第4回は立教大学名誉教授で東洋文庫研究員の弘末雅士先生にお話を伺いました。

弘末先生のご研究はインドネシア史研究から始まり、広く東南アジアの港市社会や海域世界について、『東南アジアの建国神話』(山川出版社、2003年)や『東南アジアの港市世界―地域社会の形成と世界秩序』(岩波書店、 2004年)、『人喰いの社会史―カンニバリズムの語りと異文化共存』(山川出版社、2014年)など多数の編著書や論文を発表されてきました。2018年に立教大学を退職された後も、『海の東南アジア史―港市・女性・外来者』(筑摩書房、2022年)の出版をはじめ、精力的に研究活動を続けておられます。

今回のインタビューでは、私(大久保翔平)が目下悪戦苦闘している博士論文執筆のヒントを得るべく、先輩たち(工藤裕子さん、山口元樹さん)とともに弘末先生に「海の東南アジアの歴史研究への歩みと思い」についてお話を伺いました。以下、2022年11月19日に東洋文庫で行なった約2時間のインタビューから、いくつかの話題を抽出したエッセンスを前篇と後篇に分けてお届けします。

歴史研究への第一歩:インドネシア農民の宗教運動から

大久保:本日は先生と久しぶりにお話しできるのを大変楽しみにしていました。早速ですが、先生は1952年高知県のお生まれで、子どもの頃から歴史が好きだったとのことですが、歴史研究を意識されたのはいつ頃だったのでしょうか?

大学生になってからです。我々の世代はベトナム戦争の世代です。小学校6年生の時にベトナム戦争が始まり、大学の3、4年生の1975年に、サイゴンが陥落して戦争が終結しました。新聞やテレビでは、しょっちゅうトップにベトナム戦争関係のニュースが出ていて、いやがおうでも東南アジアに関心が引き付けられ、大学でもベトナム戦争について考えるようになりました。核兵器以外のあらゆる兵器を使ってもアメリカがじわじわと土俵際に追い詰められていくんです。それで、東南アジアの抵抗運動、あるいは自律的史観に関心を持つようになりました。

大久保:時代背景が大きく影響したというわけですね。学部時代の最初の卒業論文では、どのようにトピックを選ばれたのですか?

私は東南アジアの中で一番多くの人口を抱えているインドネシアの一般の人、農民に関心を持ちました。特に19世紀末〜20世紀初めの中央スラウェシのトラジャの人々が祖霊と交信する宗教運動をトピックにしました[1] … Continue reading

きっかけは、柳田国男の本が好きで、日本の昔話や遠野物語などの伝承に関心があったことです。また、当時人気のあった吉本隆明が、ハイデガーの『存在と時間』を紹介しながら、人間というのは幻想を媒介にして現実行為を営むというような言い方をしていて、その通りだと思いました。だから昔話には死者との交流や、自然と人間との対話などが盛り込まれているのかと感じました。今いる人間が「生きている」という観念を構築するために、そんな話を長年語り継いできたのだということが面白いと思いました。卒論の研究対象は一般の農民の運動で、彼らの祖霊観と社会変革について描こうと考えました。

さらに当時は、政治的にもラディカリズムに対する関心が非常に強い時代だったので、民族主義運動や反植民地主義運動が、東南アジア研究者の間で盛んに議論されていました。周りにインドネシア共産党の反乱や、スカルノに関心がある人たちがいる中で、私は指導者のことよりも一般の人々のことを研究することに値打ちがあると当時は思っていました。

ただ、トラジャは無文字社会でした。そこでオランダ語のAlbert C. KruijtとNicholas Adrianiという宣教師の史料をもとに、なぜトラジャの人々は抵抗したのか、どのように行動したのかということを読み取るために、彼らの布教活動報告を逆手に読むことが必要でした。ただし、毎日読んでも1ページぐらいしか進みません。当時、オランダ語の入門講義を受けた後は、指導教員の永積昭先生にとにかく史料を読みなさいと言われていました。プールで泳ぎ方を覚えた後、船でいきなり大きな海に連れて行かれて、「はい泳ぎなさい、岸まで行きなさい」と言われるようなものです。

もっとも、オランダ語の手ほどきをしてくださった永積先生の奥様も永積先生も、私のわからないところを丁寧に一緒に読んでくださりました。そして、永積先生は「面白いぞ」というようなことをおっしゃってくださったのです。それが一つのきっかけでやりがいがあるなと思って、周りに対しても、自分の研究対象こそがラディカリズムの世界なんだと胸を張っていたわけです。

大久保:先生は東洋史学専攻のご出身ですが、東洋史に進むということに対して、ご家族はどのような反応でしたか?就職が難しいなどと反対はありませんでしたか?

それはあの時代の面白いところでね。高度経済成長時代でバブルが崩壊するまで、社会は右肩上がりでしたから、何かに情熱やエネルギーを傾けてやっていると必ずいいことあるのではないかと周りは思ってくれました。自分でも仕事は何とかなると考えていました。父親も一つのことに打ち込むということの意義などを教えてくれて、理解してくれました。当時は、就職とか将来の展望は考えていませんでした。それは時代の違いでしょうか。

工藤:そもそも歴史の中でなぜ東洋史を選ばれたのでしょうか?

一つはベトナム戦争からの影響です。あの頃、日本史は未知の領域という感じはしませんでした。私は当時アンチ・コロニアリズムを掲げていましたから、欧米史に関心を持つことは、そぐいませんでした。アジア史はいいんじゃないか、色々な見方ができるのではないかということで東洋史にしたのです。

永積先生がアジア史をやることは面白いとおっしゃっていたことも影響しました。当時は、東南アジア研究でも近代史の領域は東洋史に行く人が多かったですね。

修士課程から博士課程、留学へ

大久保:先生は1977年に修士課程へと進学されました。修論のトピックはどのように選んだのですか?

いかんせん無文字社会で史料も限られているとなると、さすがに抵抗運動でもトラジャは限界かなと思いました。そしてもっと派手に抵抗しているところはどこかと思い、スマトラ島のバタックというところに注目しました。19世紀末〜20世紀初頭の彼らの抵抗運動というものがどういうところから生まれてくるのかということに関心を持ちました。

我々の世代の研究者は、みな反植民地主義運動に強く惹きつけられました。トピックを選ぶ際には史料もテーマもどちらも見ましたが、まず考え方としては、面白い抵抗、胸躍るような抵抗運動がないかというところから研究に入ったわけです。

大久保:1980年に博士課程へ進学され、1983年からはオーストラリア国立大学(ANU)の博士課程に留学されました。その間の指導教員の永積昭先生やANUのアンソニー・リード(Anthony Reid)先生などとの思い出はありますか?

当時は右肩上がりという時代もあってか、皆さん気楽で、あくせくしていなかったですね。博士課程に行っても博論を出しませんし、奨学金も就職もなかったので、永積先生が「どうしますか弘末さん。コーネル大学なら推薦状を書きますよ。あるいはオランダかインドネシアに行きますか」というような話を持ってきてくださいました。

コーネルはちょっと寒そうだから遠慮し、ANUが奨学金を広く募集しているということを聞きましたので、オーストラリアに推薦状を書いていただけませんかと言うと、「モナシュ大学にいるリックレフス(Merle C. Ricklefs)君のところに行きますか、それともリード君のいるANUにしますか」と聞かれ、リックレフスはジャワ史の専門家だから、ANUの方にお願いしたいということで推薦状を書いてもらいました。

合格通知が来た時には、永積先生は驚いた様子でした。私からすると先生は自分に任せておきなさいっていう感じだったのですけどね(笑)。ANUではフィールドワークにオランダかインドネシアに行かせてもらえるということで、3年間の奨学金をもらって行きました。

アンソニー・リード先生は、非常に懐の深い先生でした。私は修士論文まではラディカリズムのみで論じる価値があると思い込んでいました。しかし、リード先生からは「そうではない、研究対象の持つ学術的な重要性を東南アジア史の文脈の中で示す努力をしなくてはならない」ということを言われました。

フィールドワークでは、オランダとドイツで10ヶ月、インドネシアで3ヶ月史料収集をしてきました。青春時代で楽しかったですね。留学先で研究者たちと交流しながら、日中は史料を収集した後に、食事をして、ビールやワインで構想を練るというのが楽しくてね。

大久保:美しい思い出ですね。留学先での苦労はなかったのでしょうか?

史料収集の後に論文を書く段になり苦労しました。英語で書くという習慣がなかったわけです。ANUの留学生担当のアカデミック・アドバイザーからは、「とにかく論文の内容は全部、日本語で考えなさい。そこでアイデアがしかるべくできていたら、英語はいくらでも直しようがあるから」とアドバイスを受けました。そこで英語で書いていくと、リード先生が「何度も読み返してみたが、あなたの言いたいことがわからない。頼む、英語を勉強してくれ」と言われ、留学生向けの英語エッセイを書くコースに行き、トレーニングを受けることになりました。

トレーニングでは、「表現を的確な英語にすることはいくらでもできるから、数学の証明のように論理を積み重ねていくように」と言われました。段落ごとに証明を重ね、したがって最後にこうなるという論理の積み重ねのトレーニングを受けました。後から考えると、英語のロジックで考えを組み立てていくやり方がしんどかったですね。

ただし、それは日本語のロジックの構造を見つめ直す機会にもなります。普通我々日本人が日本語で論文を書いているときは、日本語の論理構造や文章の構造はあんまり意識しませんよね。私がそういうことに悩んでいると、ニュージーランドで教員をしている日本人の先生から本居宣長の本を勧められました。本居宣長の文章は非常に論理的に積み重なっているということでした。

博論の指導では、リード先生は徹底的に私の英語表現に手を入れてくださいました。博士号の取得は1988年でしたから5年ぐらいかかりました。エホバの神から啓示を受けたパルマリム運動から、弾に当たっても不死身となると唱えるパルフダムダム運動へというバタックで起きた抵抗運動の変わり方を博士課程で研究しました。

工藤・山口:今の私達から見ると、アンソニー・リード先生のお弟子さんとして指導を受けられるという貴重なご体験ですよね。リード先生も当時はまだお若かったのではないですか。

彼は1939年生まれですので、私より13歳上です。当時はまだ50歳になっていない頃で、The Age of Commerceの原稿を執筆中でした。話は交易活動についてのことが主で、へぇーと思いながら聞いていました。リード先生は論理的で、議論の提示の仕方も非常に理知的でありますが、当時の私からすると、「少しラディカリズムに欠けるなと」と思ったりもしました(笑)。

港市社会、海域世界の探求へ

大久保:先生の著作リストを眺めていると、大学に就職された1990年頃から、研究対象が港市社会とか海域世界などに変化されたようです。食人風聞や外来者、現地人女性、混淆などへの関心の広がりにはどのようなきっかけや背景があったのでしょうか?

オーストラリアで博士号を取って、揚々たる気分で帰って来たのですが、その後、反植民地主義運動や宗教抵抗運動を発表しても、周りはあまり面白いと言ってくれなかったんですね。

1980年代の終わりは、グローバル化が進展し出している時代です。国民国家を産んだエネルギーへの関心や国民統合に対しても、周囲はやや冷めており、1980年代終わりになると、「まだやっているのか」と、あまり反響がなかったことを覚えています。

他方東南アジア史は、東洋史の中では東西交渉史の伝統を引いています。いわゆる前近代の交流史、交易史、東西交渉史に蓄積があります。そういう近世の交易史を参考にすると、トラジャやバタックは、いわゆる内陸後背地の社会ですが、後背地社会は閉ざされて単独に出来上がっていたのではなく、実は海洋交易を通じて外部世界との交流の中で、出来上がってくることに気づかされました。

それで、リード先生の作品とかを読んでいると、近世には、沿岸港市の影響力がどんどん内陸後背地に及び、政治文化的にカバーしていくという図式が出てきます。一方私は近世の時代はちょっと違うんじゃないか、港市を補完する形で、内陸後背地の農業空間が生まれているのではないかと思うようになりました。そこでは、王国という形で国家形成をするよりもむしろ内陸後背地の生産力をつかさどる権威の象徴や権威中枢のようなものが出てくる。また人喰いの噂は、沿岸港市と内陸部の関係が無秩序で乱れていることを表すのではなくて、これから述べる広域秩序原理と地元の原理との違いが鮮明に感じられており、むしろ内陸後背地と沿岸部との関係がしっかりと成立しているからこそ、そうした噂が立つのである。そういう議論を考えるようになりました。

史料的にも内陸のことはあまりよく分かりませんが、港市国家を形成した王家が持っている王統記には、山地住民と王家がどのように関係を構築したのかが詳しく書かれています。それはストレートに史実とつながる史料ではありませんが、王家なりに主張したい内陸民や山地民との関係構築が幅の広がりを持って語られており、そうしたことに関心を移していきました。

港市支配者は、一方において外来商人と関係を構築するために、イスラーム、上座部仏教、中華の秩序などの広域秩序原理によって外部世界とネットワークを形成していました。同時に内陸民や山地民との間には、広域原理とは別の原理で関係を構築していました。つまり地元の自然や生産力をつかさどる超自然的な力を持つことを唱え、王家としての正統性を示すことで、内陸の人々と関係を構築したのです。内陸民や山地民は、地元の生産活動を支え、それを保障する権威として王家を崇めているからこそ、王家に産物を持っていくのです。

その2つの原理の顔の使い分け方に、広域ネットワークと地域社会との関係構築の仕組みがあるのではないかと考えるようになりました。そしてその関係構築を日常的に具体的に担っているのは、現地人女性です。前近代の東南アジアには、外来者が滞在中に現地人女性と一時結婚する慣行がありました。外来者と一緒に暮らしている人が、現地の言語や習慣を教え、そして彼女が外来者の持ってきた荷物を内陸まで行って売ってくるわけです。そういう港市支配者の役割や女性の役割について考えるようになりました。

反植民地主義運動と距離をおきだしたもう一つのきっかけは、東南アジアで開発独裁が進行し、インドネシアは東ティモールに侵攻して何年も支配したり、ベトナムも1989年にポルポトを追い出してカンボジアを占領したりしました。ベトナム戦争であれだけ周りから注目されたところがそんなことをやり、インドネシアもあれだけ苦労して自分らで独立を達成したのになぜ隣の国を占領するのだと考えさせられました。社会情勢の変化によるでしょうが、国民国家というのは同時に侵略の牙をむく、その要素を持っていることを感じました。

大学で教えるようになった1990年代からは、学生諸君に東南アジアについて講義するときに伝えているのは、とにかく人と交流をしましょう、そうすると、面白いことがいろいろ起こりますよと。そんなことを説きながら授業をしたことを思い出します。グローバルな交流史が出てくる一方で、地域研究もかなりそれまでの蓄積があり、その両方がせめぎ合う非常におもしろい時代だったのかもしれません。

1992年、リード先生(中央)来日時の一コマ
インタビュー風景。左から弘末、大久保、山口(敬称略)

※「弘末雅士さんに聞く(後篇)」はこちらから

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