※「加納啓良さんが語る(前篇)」はこちらからご覧ください。

4.帰国後のまとめと東京大学への転職(1978~85年)

 1978年に2年間の海外派遣を終えて帰国し、二つの村落経済調査の結果をそれぞれ本にまとめました(画像13)。また実地調査で感じた農民の階層分化、土地なし層の堆積、農業外就業の重要性などの論点を軸に、ギアツの農業インボリューション論を批判する論文を書きました。パグラランでもサワハンでもサトウキビ栽培が盛んに行われていたので、ジャワの製糖産業史について序論的研究をまとめたのもこの頃です。そして2年半あまり経った1980年10月に東京大学の東洋文化研究所(東文研)に移りました。配属されたのは東南アジア経済・社会部門でしたが、翌1981年の大部門制移行に伴い南アジア研究部門の経済・政治運営単位に変わりました。その直属上司はインド近代史が専門の故松井透教授です。松井先生は東大の文学部で歴史学を専攻する前に京都大学で物理学を学ばれた方で理数に強く、コンピューターを用いてインドの農産物価格の長期変動の研究をされていました。私も多少その影響を受け、おさがりのパソコンを拝領し1910年代と1970年代のジャワにおける農業生産統計を用いて、長期の変化や県(kabupaten)単位の地域的差違の数量的分析を試みました。その結果、それまでよく分からなかった県別、作物別の農業生産の特徴が理解できるようになりました。

画像13

 ちなみにそのころはまだパソコンの発展の黎明期で、日本電気(NEC)製のPC98シリーズ機が市場で圧倒的なシェアを誇っていました。Windowsなどまだ存在せず、N88-BASICという今から見ると原始的なプログラミング言語でマシンを動かしていましたが、搭載されているメインメモリーの容量はせいぜい256キロバイト程度で少し大きなプログラムを書くと動かなくなる有様でした。今私が自宅に装備しているパソコンのメモリーは16ギガバイトもあります。これに比べると象と蟻ほど大きさが違っていました。この頃の研究成果は『インドネシア農村経済論』(勁草書房、1988年)という本にまとめました。

5.国際文化会館フェローとしての在外研究(1986~88年)

 大学での勤務にようやく慣れた1986年から1988年までの2年間に、国際文化会館のフェローとしてオランダとインドネシアで各1年ずつ在外研究に従事する機会に恵まれました。オランダでは、かつて調査したジャワの2つの村とその周辺地域に関する植民地期の史料を見つけようと思い文書館に通って調査をしたのですが、どうもはかばかしい成果が得られませんでした。その代わりに見つけたのが、20世紀初頭に蘭印糖業連合会書記の職に就いていたファン・モルという人物が中部ジャワ北海岸のチョマル地方(district Comal)で行った村落経済調査の報告書でした。この調査は、同地方の24ヶ村に住む住民世帯の経済状態について全数調査を行い、数年がかりで整理したその成果を『数字で見るデサの庶民経済』という題の大判の報告書にまとめたものです(画像14)。この報告書には、24ヶ村の全世帯の経済状態を記した膨大な数表が収録されていました(画像15)。ジャワの農村経済についてこのように世帯レベルの大量データを集めた調査は、後にも先にも類例がありません。次に述べるように、このデータをベースラインとする追跡調査ができないかという着想が浮かびました。

 一方、翌年のインドネシアではかつてと同じくジョクジャカルタのガジャマダ大学をベースに調査を行いました。このときに客員として在籍させてもらったのは、農村・地域開発研究所(略称P3PK)です。パグラランとサワハンの2村における追跡調査とともに、中部ジャワのウンガラン(Ungaran)地方で村落史検証のための調査を行いました。オランダの文書館で、18世紀末のこの地方における197の村落(desa)の名前を列挙した史料を見つけたので、それらの村落が現在でも実在するかを調べたのです。その結果、大多数の同名の村落が現在では、行政村としてのデサではなくその下位にある区(dusun)レベルの集落として現存していることが分かりました。またこのときには、先ほど画像13でお目にかけた拙著『パグララン-東部ジャワ農村の冨と貧困』を自分でインドネシア語に翻訳する作業も行いました。これは相当疲れる仕事で、書き終わった原稿をガジャマダ大学出版会に渡した翌日からどっと熱を出して1週間ほど寝込む始末でした。幸いその後インドネシア側の編集者がさらに文章を整え、1990年に上記出版会から刊行の運びとなりました(画像16)。

画像14
画像15
画像16

6.第1次チョマル地方調査の企画と主催(1989~96年)

 オランダで20世紀初めの農家経済の大量データを見つけたチョマル地方について、現状を再調査して90年近い期間の変化を調べるという国際共同研究のアイデアを、オランダでは滞在先だったアムステルダム大学の人類学者フランス・ヒュスケン(Frans Hüsken)氏に、インドネシアではガジャマダ大学の歴史家ジョコ・スルヨ(Djoko Suryo)氏に持ちかけたところ賛同を得ることができました。そこで1989年に両氏を東京に招いて準備会議を催しました。また日本側では当時まだアジ研の所員だった水野広祐さんに加わってもらうことになりました。

 ファン・モルがしたように24ヶ村もの住民世帯全数調査を行うのは不可能なので、そのうちタイプの違う7ヶ村を選び、人口数に応じて標本世帯を無作為抽出し全部で500世帯の農家経済調査をまず1990年に行うことにしました。インドネシア語の質問表を日本側で用意し、ジャワ語による実際の聞き取りはガジャマダ大学の若手教員と大学院生に任せて私たちもそれに同行する方法を採りました。画像17がそのときの様子です。また翌1991年には、オランダ側により村落史の聞き取り調査とジャカルタとボゴールの文書館に保管されていた植民地期の関連史料調査が行われました。画像18は村落史の聞き取り調査の様子です。また画像19は村の子供たちの姿です。1970年代と同じで、みなまだ裸足でしたね。

画像17
画像18
画像19

 さらにその次の1992年に、オランダ側にも来てもらってガジャマダ大学で締めくくりのセミナーを開催しました。それから各自の研究成果を集めて報告書をまとめる作業にかかりましたが、原稿がなかなかそろわず苦労しました。日本側の調査結果だけを日本語でまとめた報告書は1994年に出しましたが(画像20)、全体の成果をまとめたインドネシア語版は1996年にようやく刊行され、英語版はそれより5年も後の2001年にようやく出版にこぎつけました(画像21, 画像22)。20世紀初めのファン・モルによる報告書の刊行も調査後10年ぐらいかかっていますが、パソコンが使えるようになった20世紀末の仕事も3カ国にまたがるとなかなか迅速には進まないと痛感しました(1990年代初めにインターネットはまだ普及しておらず、インドネシア、オランダとの意思疎通はもっぱらFAXと郵便に頼る状態でした)。

画像20
画像21
画像22

7.農村研究の中休みとジャカルタ首都圏調査(1997~2000年)

 チョマル地方での最初の共同調査を終えたあと、私のジャワ農村経済研究はやや中だるみの状態になりました。国際的にも、村落調査の手法による農業経済調査への関心は薄れてきたのです。ちょうどそのころ、東大の別の部局である社会科学研究所(社研)が、JICAプロジェクトの枠組みでインドネシア大学日本研究センター(略称 PSJ-UI)への研究支援に取り組むことになりました。たまたまその担当責任者になったのが学生時代からの友人のN教授でしたが、彼も含めて社研にはインドネシアについて知識と経験のあるスタッフが誰もいませんでした。そのため私に協力の要請があり、プロジェクトの立ち上げから実施まで中心メンバーの一員として関わることになりました。そしてJICA派遣専門家としてジャカルタに長期(1年)、短期(数週間)の滞在を繰り返すことになったのです。

 プロジェクトは複数の共同研究チームから編成され、私自身はUIの若い社会学者たちとタッグを組むことになりました。テーマを選んで実地に調査をするのですが、それまでやってきた中・東部ジャワの農村調査をジャカルタをベースに行うのは不可能です。そのため、ジャカルタと東京の首都郊外新興住宅地域の比較研究を試みることにしました。私は社会学が専門ではありませんが、生まれも育ちも東京の多摩地区なので土地勘が働くからです。画像23がその調査報告書(英文)です。私はこのテーマの調査研究をJICAプロジェクト終了後も継続・発展させて欲しかったのですが、残念ながらUI側の事情で立ち消えになってしまいました。

画像23

8.プランテーション農業史の検討と「最終研究発表」(2001~2012年)

 日本研究支援のJICAプロジェクトは2008年度が最後になりました。そのころから私が関心をもったことのひとつは、ジャワ以外の地域の事情にも見聞を広げることでした。インドネシア経済の地理的全体像を自分なりに構成するには、それが必要不可欠だったからです。と言っても新たに現地で本格的な調査を企画する余力はないので、二つのことに注力することにしました。ひとつは、手近で利用できる文献資料によりスマトラやカリマンタンなどで盛んなプランテーション農業、とくにその主な担い手である企業の系譜を調べることでした。これは1970年代末に手がけたジャワの製糖産業史研究の続編にも相当する作業でした。その成果は、天然ゴム、コーヒー、アブラヤシの順で勤務先の紀要などの論文にまとめました。もうひとつは、陸路で赤道に到達するという名目で西スマトラとリアウ、東西カリマンタン、中スラウェシ、北マルクの各地を訪ねるという物見遊山の実行です。もちろんこれは学術調査とは言えませんが、見聞を広めるのには大いに役立ちました。その記録は、論文ならぬ漫遊記として当時関与していたNGOの機関誌(JANNI『インドネシアニュースレター』)に公表しました。

 そんなことをしているうち、2012年3月末で30年以上勤務した東京大学東洋文化研究所を定年退職することになりました。画像24が最終研究発表の記録になります。

画像24

9.定年退職後の研究活動(2012年~現在)

 定年退職後は定職に就きませんでしたが、授業や会議から解放されたので研究や執筆に充てる時間はかえって増えました。ジャワ農村経済研究と関わりの深い仕事は3つありました。ひとつは、アメリカのオバマ前大統領の母親で人類学者の故アン・ダナムが残したジョクジャカルタ特別州グヌンキドゥル県の農村工業(鍛冶屋)の調査記録をめぐるものです。この大部の著作の翻訳を監修する作業を頼まれたのです。気軽に引き受けたのですが、鉄工業などの専門知識を勉強しなければならず3年がかりの仕事になりました。しかし、調査地の地誌や農村工業の調査は興味深いテーマでやりがいがありました。画像25が出版された訳書の写真です。

 二つ目は、農業・農村の分析も含めたインドネシア経済全体の構造に関する経済史的視点からの考察と記述です。20世紀末までの状態については、在職中すでに『現代インドネシア経済史論─輸出経済と農業問題』(画像26)という本を書き、その英訳も刊行されました(画像27)。しかし21世紀に入ってからのインドネシアの発展と変化は大きく、新たな構図を描き直す必要に迫られました。その結果が2021年に刊行された『インドネシア─21世紀の経済と農業・農村』(画像28)です。

画像25
画像26
画像27
画像28

 三つ目は、チョマル地方での第2次調査プロジェクトへの参加です。今回のプロジェクトは京都大学で現役だった水野広祐さんがリーダーになって組織され、2012年8~9月に日本側メンバーの主導のもと1990年と同じ7ヶ村で、人口増加も考慮して計1,000世帯の経済状況に関する聞き取り調査が行われました。実際に個々の面接調査に当たったのはガジャマダ大学文学部の大学院生たち(人類学専攻)でしたが、私を含む日本人4人も現地の村に泊まり込んで調査に同行しました。画像29は現地で大学院生たちと打合せの会議をしたときの様子です。また稲刈りのあとの脱穀の様子を撮ったのが画像30です。自転車の部品を転用した人力の足踏み脱穀機が使われています。これは1990年にはまだ見られなかったやり方で、おそらく日本起源の技術と思われます。また、圃場で働く農業労働者たちが高齢化していることにも印象づけられました。さらに画像31は村の小学生たちの姿です。みなこざっぱりとした制服を着て靴をはいています。裸足で歩いている子はもういなくなりました。

 全般に豊かになると同時にサービス部門を中心に農業外就業の拡大が顕著で、非農業所得が農業所得を大きく上回るようになりました。東南アジアの他の国々と同様に、脱農業化(de-agrarianization)の進行が目立っています。インドネシア、オランダ両国のメンバーによる調査報告も含め、プロジェクトの研究成果を本にまとめるのは今回も10年以上の時間がかかりました。画像32がその成果です。私自身の英文による報告も納められていますが、同じ内容の日本語の論文が、一足先に画像28の拙著に収録されています。

画像29
画像30
画像31
画像32

 以上で私の報告を終了させていただきます。本日はご清聴いただきありがとうございました。