聞き手: 中野真備(京都大学大学院・院生)、加藤久美子(上智大学大学院・特別研究員)
モデレーター:貞好康志(神戸大学)

 「インタビュー:先達・先輩にきく」の第2回目のインタビュワーは、それぞれ博士課程に在籍する2人の大学院生[1]2021年2月9日インタビュー時。学位取得後の人生について考える機会が多くなりました。将来的にインドネシアとどのように関わり、また自分の経験を活かしながら、たとえば「研究者」以外に、どういう選択肢があるのでしょうか。

 そこで、アジア経済研究所(以下、アジ研)を経て、現在はコンサルタント等として、インドネシアに関わり続ける松井和久さん(松井グローカル合同会社)にお話をうかがいました。私たち2人はスラウェシでのフィールドワークを中心に研究をしており、松井さんは南スラウェシでの経験が長く、これも一度お話をお聞きしたいと思った理由のひとつです。
 
 松井さんは現在、主にインドネシアと日本をつなぐコンサルタントとして、最新のインドネシア事情についての執筆やセミナー、講演などでご活躍されています。ご著書『スラウェシだより』(アジ研、2002)、『インドネシアの地方分権化—分権化をめぐる中央・地方のダイナミクスとリアリティ』(アジ研、2003)、『一村一品運動と開発途上国—日本の地域振興はどう伝えられたか』(アジ研、2006)等では、これまで松井さんが関わってきたインドネシア・日本における開発や地域振興のあり方が、地域に根ざした視点で描かれています。

 近年では、日本とインドネシアをつなぐ新たな方法を模索するなかで、研究者/実践者の垣根を超えた「インドネシアニスト」としても精力的に取り組まれています。松井さんが主宰するインドネシアや日本の様々な読者の投稿を集めた会員制マガジン「よりどりインドネシア」は、まさにこうした「インドネシアニスト」たちの集まる場所となっています。

 今回は、2021年2月9日におこなった2時間にわたるオンライン・インタビューから、5つのトピックを選び、前・後編に分けてお届けします。前編では、松井さんが見てきたインドネシア、そして地域(ローカル)との関わりについて、後編では、将来さまざまな形でインドネシアと関わり続けたい大学院生に向けてのメッセージもうかがいました。松井さんと私たちを繋ぐモデレーターには、松井さんと交流のある貞好康志さん(神戸大学)を迎え、若いインタビュワーの背中を押していただきました。

松井和久さん(プロフィールはこちらを参照ください)

——中野:本日は、インタビューをお受けいただきありがとうございます。松井さんとお話できるのを楽しみにしていました。コロナ禍で大変な時期ですが、最後にインドネシアに行ったのはいつ頃ですか。

去年の3月かなぁ。以前は、2ヶ月に一度はインドネシアに行かないと禁断症状がストレスになって現れたものですが、この状況になってだいぶ慣れましたね。インドネシアに行く時は、いつもジャカルタの「アジト」に滞在するんですが、去年の3月はジャカルタに着いた翌日の3月2日に初の感染者が出た、しかも日本人だ、というニュースが入ってきて、知人たちに迷惑はかけられないとホテルに滞在しました。

ちなみに、私がアジトと呼んでいるのは、アジ研にいたときからインドネシア大学院留学時代(アジ研職員として留学、滞在:1990〜1992年)にもお世話になっていた下宿先のことで、その家の長男のような扱いでいまもお世話になっています。

インドネシアへ:都市と地方(ローカル)

——加藤:アジ研に入所されたのは、1985年くらいのお話でしょうか。

そうですね、学部時代の恩師はインド経済が専門で、私もインドか韓国をやりたかったんです。でも入所した当時は、どの国の担当になろうとも「地域のプロ」になろうと考えていました。

——中野:はじめから、インドネシアと関わりが深かったというわけではないのですね。それでは、なぜ「地域のプロ」になろうと思われたのですか?

自分の父の言葉が大きく影響しています。もともと私は研究者になりたかったわけではありませんでした。父は私の故郷・福島で学校の先生を務めていて、あるとき、父に「お前はもっと広い世界で、福島を、できれば日本を出て、外の世界でそこに生きる人々のために働いたらいい」と言われたんです。そのためには、何よりもまず「外」の世界・地域、そこの人たちについて知らなければと思いました。そして漠然と、そこに生きる人々と一緒に何かをしたり、創ったりするような人生をおくりたいと思いました。

そういう生きかた、取り組みかたをするという意味での「地域のプロ」になろうと考えて、いわゆる就職活動を全くせず、ぶっつけ本番で試験を受けたマスコミも全滅で、最後に拾ってもらったのがアジ研だったんです。アジ研では1年目で現地に行けることってないんですよ。でもインドネシア担当なのになかなかインドネシアに行けなかったので、初めての夏のボーナスを全部はたいて自分で行ってしまいました。当時、インドネシア語を教えてもらっていた留学生のバンドンの近くの実家に転がり込み、バイクの後ろにまたがって西ジャワの山中を走ったり、彼の家族と夜行バスでボロブドゥール見学へ行って泊まらずにそのまま夜行バスで帰ったりと、私のインドネシアとの関わりの原点となるような経験をしました。

さらにラッキーなことに、入所1年目(1985年)の10、11月には、理事のカバン持ちで、今度は仕事としてインドネシアに行く機会がありました。大雨のプンチャックでワイパーが壊れて、止まった車の中で全く動揺しない理事に驚いたのを覚えています。

2年目(1986年)になると、アジ研による通産省の受託調査でジャカルタから西ジャワ、中ジャワの地方を回ってインドネシアの中小企業の聞き取り調査をしました。私自身は全く戦力になりませんでしたが、同行した研究所の先輩から手取り足取り指導していただけました。これも貴重な経験でした。

3年目(1987年)のときは、動向分析部の出張でインドネシア以外にマレーシアとブルネイ、あとフィリピンに行ったのかな。インドネシアではトラジャのキーコーヒーを見に行きました。これが私にとって最初のスラウェシでした。マカッサルの美しい夕日を堪能してからトラジャへ行き、戻ってくる道すがら、マカッサルで暮らせたらいいなあという気持ちが溢れました。

2年間(1990〜1992年)のジャカルタ滞在を終えた後、しばらくして、アジ研の中で、インドネシア語ができて東インドネシア地域開発に関する専門家として地方都市に行ける人材を探しているという話がありました。入所10年も経たない自分は難しいだろうと諦めかけていたら「君どうか」と誘われて、しかも「地方都市」がどこかというと、「マカッサルだ」というではありませんか。「ずっと行きたいと思っていたんです、それ絶対行かせてください」と即答しました。

——中野:スラウェシへの赴任には、そんな経緯があったんですね。

はい。アジ研の先輩たちが誰もまだ長期滞在したことがないところに滞在したいという想いもありました。だから、最初の長期滞在地はジャカルタで、当時はとても残念な気持ちになりました。でも今にして思うと、ジャカルタに滞在してから地方都市に住んだのはとても良かったですね。ジャカルタの人達が地方をどう見てるか、それから地方の人はジャカルタをどう見てるかの、両方が見えてくる。

それで、1995年11月から98年10月までJICAの長期派遣専門家として、マカッサルに滞在しました。その間に通貨危機が起きて、スハルト政権は倒れるし、暴動はあるしで、家族3人の生活は大変でしたが、本当に得難い貴重な経験をしたと思います。そのときの激動の様子を地方から見て描いたのが『スラウェシだより——地方からみた激動のインドネシア』(アジ研 2002)なんです。

たとえば通貨危機のとき、スラウェシのような島の中にいると物資がジャワから入らなくなって、一気にものが手に入れられなくなるんです。そうすると本来は安価なインドミー(インスタント麺)の物価も、2倍、3倍にはねあがります。そうなると所得の低い人は、インドミーの入手さえも困難になるんです。だから我が家では毎月、運転手や使用人へ、給与以外にもインドミーや食用油、砂糖などを必ず現物支給しました。ジャカルタでは、物資が手に入りにくくなるために起こるこういう事態はなかったと、当時ジャカルタにいた友人たちは言ってましたね。

ローカルをみる、ローカルと関わる

——中野: 90年代後半のインドネシアをマカッサルという地方から見た記録はほとんどないので、『スラウェシだより』はすごく貴重だなと、何度読み返しても思います。この当時のマカッサルという地域は混乱の最中にあった一方で、東部開発地域の拠点として位置づけられてもいました。このような開発対象地域、あるいは松井さんの言葉でいう「ローカル」とは、松井さんからみてどういう場所だったのでしょうか。

とにかくローカルって面白いっていうのかな。行く先々みんな違っていて、そこに住んでる人たちも、自分たち独自の考え方とかやり方を持っていて、どこに行っても面白い。彼らからしたら当たり前のことなんだけど、よそ者からみると、まさにそういうローカルが寄り集まって社会の多様性が生み出されている、と感じました。

それと、ローカルということをみた場合に、どのローカルが優れてるとか劣ってるとか、そういう比較は出来ないということも学びました。

そこの人たちの暮らしや生活が、これまでの様々な環境や歴史を経由していまに至って継続されているということをリスペクトする、大事にする。こういった背景を踏まえれば、ローカルを序列でみることはありえないと思います。その地域の文化にとって「よそ者」である人は、常にそういう姿勢で人々に接することが大事だということを、ローカルと関わるなかで学んだような気がします。

——中野・加藤:とても共感できます。その後、日本の地方とも関わりが増えていくのですよね。どのようなきっかけだったのでしょうか?

インドネシア東部地域で日々地方と関わるなかで、「あれ?でも日本の地方のことってよくわかってないなぁ」と思うことが多々ありました。日本の地方でも、地域づくりとか地域振興とか盛んにやっているわけで、もっと日本でも実地に学ぶ必要があると思うに至りました。それで2001年4月に帰国した後、遅ればせながら、日本の地域づくりの勉強をはじめたのでした。

日本の地域づくりを学ぼうと『農村文化運動』(農文協の季刊誌)だとか、『増刊現代農業』(農文協の季刊誌)とかを読み始めて、そのときに出会ったのが「地元学」という考え方でした。それは雷に打たれたような、衝撃的な出会いでした。これだ、「地元学」こそがまさに自分がインドネシアでやりたいと思っていたことだったんだ、と。この『地域から変わる日本―地元学とは何か』(農文協、2001)という本は私にとってはバイブルなんです。

写真:松井さんの「バイブル」となった一冊

「地元学」以外では、特に「一村一品運動」についてはかなり深く学びました。2005~2006年には立命館アジア太平洋大学と共同研究を行い、『一村一品運動と開発途上国―日本の地域振興はどう伝えられたか』(アジ研、2006)を出版しました。そこでは、日本の地域振興の経験の何をどのように開発途上国へ伝えられるのかについて、私なりの経験を踏まえた考えを述べました。そして、今でも日本の地域づくりや地域振興の動向は、自分なりにずっと追いかけています。

日本の地域づくりを学んでいるうちに、日本の地域がいま直面している根本課題も、世界あるいはインドネシアの地域が直面している根本課題も、ローカルとしての様々な特質は違うけれども、実は同じなのではないか、と気がついたのです。たとえば今日、その地域を地域たらしめているもの、アイデンティティが、様々な形で失われつつあります。これに対して日本の地域づくりでおこなわれている色んな試行錯誤も、インドネシアの地域での試行錯誤も、アイデンティティの危機という根本課題を幹に据えて、お互いに学びあうことができるんじゃないかと思ったのです。

全世界的な、ローカルが直面しているユニバーサルな根本課題を意識した時に、国を介して何かやってもらうのではなくて、全く違うローカル同士が横に繋がりあって、お互いが対等に理解しあい、尊敬しあうことによって、今とは違う新しい世界を作っていくことができるんじゃないかと考えました。

そのために自分は動きたいと思って、2度目のマカッサル長期滞在後の2008年3月にアジア経済研究所を辞めたのです。そしてしばらく後に、一人会社として法人化してみようと思い立ち、「松井グローカル合同会社」を立ち上げました。

——中野:なるほど。松井さんが色々なところでおっしゃっている「カタリスト」や「ファシリテーター」の役目というのは、つまり国を介さないような、ローカル同士をつないでいくことで、そのために会社を設立されたということなのですね。

「カタリスト」という言葉を使っていますが、むしろ自分はつないだ後、忘れられるような存在でありたい。つまり、つないだ相手が、主体的に自分たちでやっていくような、そういう立場でありたい。つないだ先にどういうことが起こるのか、どういう未来がそこから拓けていきそうか、ということを想像しながらつないでいきたいと思っています。たとえば、ローカル同士でつながっていくためのアプローチとして、技能実習制度をうまく活用できないだろうか、ということにいま注目していて、今後そのような提案をしていきたいと思っています。

そうしていつか、多文化共生などという用語が必要ないような新しい社会を作っていく。本当の意味での新しい日本社会の形成とは、実は人材的に深刻な状況の地方から始まる/始まらざるを得ないのではないかという期待すら、自分では持っています。

でも、それで自分がどう食べていけるのか、というのが一番の悩みではあります。簡単に答えは出ませんが、まあ、同じような思いを持つ同志を世界中に求めて、地方と地方をつなげるとともに、自分自身もつながっていくことが大切なのかなと思います。

私は、自分では成功者とは全然思っていません。正直にいうと、アジ研を辞めたことを未だに後悔する自分もいる。こういう選択をしたことが、自分にとって本当に正しかったのか。収入が不安定という面では、大学院生の厳しい状況も自分に映しながら、多少なりとも思いを共有できるかもしれません。

「松井和久さんに聞く 「つなぐ人」の可能性(後編)」はこちらからご覧ください。

脚注[+]