福武慎太郎 (上智大学)

 インドネシアの小説の翻訳は、2013年刊行の『虹の少年たち』(原題:Laskar Pelangi、映画の邦題は『虹の兵士たち』、アンドレア・ヒラタ著、サンマーク出版)以来二度目です。今回の『珈琲の哲学』の翻訳は、『虹の少年たち』の共訳者で、現在ジャカルタを拠点にタレント、ミュージシャンとして活躍中の加藤ひろあきさんから翻訳の相談を受けたことがきっかけです。メインの翻訳者となる西野恵子さんがディー・レスタリ作品のファンで、加藤さんを通じて同作品の翻訳の相談を受けました。加藤さんは、東京外国語大学大学院での修士論文のテーマがディー・レスタリの長編小説Supernova (2001, 未邦訳)だったことや、私もまた、同作品の表題作である「珈琲の哲学」の映画化(Filosofi Kopi, 2015)が話題になっていたことでディー・レスタリに興味を持っていたので、西野さんの提案に賛同し、動くことになりました。

 日本の出版不況のなか、とりわけ外国語文学の翻訳出版をとりまく環境は良いとはいえません。東南アジアの現代文学となるとなおさらです。かつてはトヨタ財団「隣人をよく知ろうプログラム」(1978年〜2003年)などの翻訳出版助成があり、インドネシア文学の日本での紹介も相当数ありました。しかし今は本当に難しいと思います。今回も、いくつかの出版社に相談しましたが、良い反応をいただけませんでした。

 そこで、私の本務校である上智大学の出版会に企画を申請してみることにしました。大学出版会の役割は、商業出版の難しい学術書の出版にありますが、本企画に対しては学術的価値の高い外国語文学の翻訳出版も意義があると理解してもらえ、採択が決まりました。上智大学出版の場合、上智の専任教員が主たる著者となることが条件であるため、私が監訳者という立場になっています。しかし翻訳の大部分は西野さんと加藤さんによるものです。

 私の主な研究地域は東ティモールで、インドネシアを主たる研究地域としているわけではありません。しかしながら博士後期課程の際にジョグジャカルタに滞在し、インドネシアでのフィールドワークを念頭におきインドネシア語を学習しました。滞在中にマングンウィジャヤやアユ・ウタミの小説を好んで読み、いつかこのような小説の翻訳をしてみたいと考えていました。

 優れたインドネシアの小説を読んでいると、これは良質なエスノグラフィだと感じることがあります。インドネシア人作家による描写から、さまざまな階層や民族の日常の息吹を感じますし、物語を通じて、インドネシアの現代社会を生きる人々が直面する社会的問題や倫理的葛藤を知ることができます。研究対象となる社会の文学作品を読むことは、フィールドワークをすることと多くの共通点があるような気がします。ディー・レスタリの作品は、同性愛や不倫など、どの社会にも共通する普遍的なテーマを扱っていますが、宗教的価値をめぐる葛藤がやはり背景にあると思いますし、彼女の作品には確かにインドネシア的な何かを感じることができます。

 2020年1月、上智大学アジア文化研究所の招聘により、著者のディー・レスタリに上智大学で講演をおこなっていただきました(参考URL:https://dept.sophia.ac.jp/is/iac/ news/doc/news20191217_472100026.html)。ディー・レスタリはミュージシャンとしてそのキャリアをスタートしたこともあり、当然ですが音楽的才能にも恵まれた人です。来日に同行した夫のレザ・グナワンさんのピアノ演奏をバックに、映画の『珈琲の哲学』のシーンに合わせて作詞した曲を何曲か披露していただきました。彼女が歌った曲は、自分自身の作品からではなく、映画化された「珈琲の哲学」からインスピレーションを受けてつくられたものです。文学と音楽、自らのオリジナルと他のひとによる新たな解釈、彼女にとってその垣根は低いのだなと感じました。それは『虹の少年たち』の著者アンドレア・ヒラタにも感じたことです。『虹の少年たち』はアンドレアの故郷、スマトラ島南沖のブリトゥン島を舞台にした自伝的小説で、映画も同島で撮影されました。アンドレアは小説と映画に関連した展示をするミュージアムを地元の村で運営し、時折ミュージアム内では仲間たちとバンド演奏を披露したりしています。英語版『虹の少年たち』は映画『虹の兵士たち』の内容にかなり近づけて、著者自身が大幅にリライトしたものが元になっています。

 私にとってインドネシアの小説を翻訳することは、私なりのインドネシア研究への関わり方です。けっしてインドネシア語能力に自信があるわけではありませんが、翻訳を通じて私なりのインドネシア理解を深めることができればと、近いうちに新たな作品の翻訳に取り組みたいと思っています。

KAPAL運営委員会情報担当より

 今回は、2019年に刊行された『珈琲の哲学 ディー・レスタリ短編集1995-2005』をめぐって、「カパルの本棚」と「カバル・アンギン」の連動企画による2本の投稿を掲載いたしました。

 「カパルの本棚」では、インドネシア文学研究者であり、文学作品の翻訳や映画の字幕制作でも活躍される竹下愛さんに、書評をお書きいただきました。

 また、「カバル・アンギン」では、同書の監訳者である文化人類学者の福武慎太郎さんに、翻訳の背景について寄稿いただきました。

 お二人とも、この作品からインドネシアの現代社会に生きる人々の内面的葛藤が読み取れると指摘されています。文学関係者だけでなくインドネシア社会に関わる多くの方に、双方を合わせてお読みいただければ幸いです。