山下晋司(東京大学名誉教授)/鏡味治也(金沢大学名誉教授)

堀 研「ケチャ」
(画集『風の匂 土のにおい 人の温もり』瞬報社写真印刷株式会社、1992年より)

はじめに

 2021年4月から22年3月にかけて、私(山下)は弘文堂スクエアというブログサイトに「トラジャその日その日1976/78—人類学者の調査日記」を連載した。連載にあたって、『カバル・アンギン(風のたより)』に「トラジャ調査日記の公開」という文章を寄せた(2021年5月19日公開、最終更新日2021年11月30日)。昔の調査日記をデジタル化する作業はその後も続けており、最近1994-95年バリ調査の部分の作業を終えた。そのときの調査は、鏡味治也さんと一緒だったので、当時の調査の問題点について、彼と検討する機会があった。ここではその一端を述べ、インドネシア研究の未来のための一助としてみたい。

役所をフィールドワークする

 この時の調査は、「東南アジアにおける国民国家と地方文化の相関的動態に関する文化人類学的研究」(代表:山下晋司)という科研費による調査で、私(鏡味)はジャカルタとバリでほぼ山下さんと同行することになった。この3年前にバリの調査村落で2回目の4か月に及ぶ滞在調査を終えたばかりだった私は、村に住んでいれば肌身で感じる「地方文化」に対して、つかみどころのない「国民文化」をどういう観点から研究したらよいかを見つけ出そうと苦心した。

 フィールドノートには、どこへ行って誰と会った、何を見ただけでなく、どこで何を食べたか、どんな風体の人がいたか、テレビや新聞で何を見たか等々が書き記してある。食堂のメニューや外出着は、地方文化由来のものであっても、より広い範囲で共有されていれば、立派な国民文化のはずである。メディアが教育と並んで国民文化普及の最有力手段であることは言うまでもない。

 この時の調査ではじつに多くの役所を回った。調査ヴィザで入った私たちは、まずジャカルタの内務省本庁の社会統制局に入国の報告をすると、調査予定地の州政府宛の紹介状を渡される。それを州政府に持参するとこんどは県政府、次は郡役場、さらに村役場というぐあいに、国の統治機構を上位から下位に向けて巡ることになる。これに警察の通行許可を求めての役所巡りが、やはりジャカルタ本庁から州警察、県警察と続く。統治と治安という国の骨格を辿る「巡礼の旅」である(現在では調査許可の申請方法は変わっているが、こうした役所回りはあまり変わっていないようだ)。

 それに加えて、私たちの調査関心に関連する文化庁、観光庁、その州への出先機関である教育文化省バリ地方局、観光郵政通信省バリ地方局、またそれに対応するバリ州文化局、バリ州観光局、さらにバリ州労働局、バリ州税務局などにも足を運んだ。役人の答えはどれも公式見解を繰り返すありきたりなものだったが、それらがいずれも条例や各種通達に依拠しており、法令や通達文書こそが重要な資料であることを知った。また朝出勤してしばらく机に向かったあと、順次その日の仕事に出かけ、昼過ぎはほとんど役人が部屋にいなくなるので、役人をつかまえるときは朝駆けが必須なことも学んだ。

地域社会と国家

 私(鏡味)がこの時の調査テーマにしたのは、バリ州政府の主催で催されていた慣習組織コンテストである。いったい慣習をどうやってコンテストにかけるのかという素朴な疑問からのことだったが、調べていくと、これが地域社会を、その特質を維持したまま国家につなげようとする仕掛けなのだという答えにたどりついた。

 この時の山下さんとの会話でキーワードになったのがコンテスト(lomba)と指導・育成(pembinaan)である。コンテストというひとつの土俵を提供し、それに乗る過程で、指導・育成していくというのはどの国家建設の過程でも見られる仕掛けで、スハルト政権もそれを多用した。バリ州政府はそれを逆手にとってバリの独自性を滑り込ませようとしているように見えた。これを後に博論にまとめ、本にした(鏡味『政策文化の人類学』世界思想社、2000年)。

 その後スハルト政権が倒れ、東チモールが独立を選択したが、国内の混乱にもかかわらず国家の解体は起きなかった。地方自治のかけ声のもとに、スハルト的開発統治手法が地方に分散し、州知事や県知事は足元の地域開発に余念がなく、国家統一の崩壊への懸念は薄れているように見える。裏返せば、それだけ国民文化が普及浸透し、地方文化のリアリティの方が影薄くなっているということだ。

インドネシア独立50周年儀礼

 1995年はインドネシア独立50周年にあたり、首都ジャカルタでは8月17日の独立記念日を中心にさまざまな儀礼がもたれた。私(山下)の日記にはそのいくつかを参与観察したことが記されている。これについてはすでに報告したことがあるので(山下「儀礼と国家—インドネシア独立50周年記念事業から」『岩波講座文化人類学9・儀礼とパフォーマンス』岩波書店、1997年)、詳しくはそちらを参照していただきたい。「参与観察」と言ってもこうした巨大な儀礼のすべてに「参与」することなどできない。したがって、ホテルでテレビにかじりつきながら、あるいは翌日の新聞の解説を読みながら、儀礼を「観察」することになる。とくにテレビは参与の方法として興味深く、キャスターは「あなたはどこにいてもこの儀礼に参加できる」と言っていた。現地でフィールドワークすると言っても、儀礼の全体を知るのはテレビを通してなのだ。

 ポイントは、メディアなしに現実が観察できないということである。ベネディクト・アンダーソンの言う「想像の共同体」はメディアによって演出されるわけだ。8月19日に行われた「クンドリ・ナショナル」(国民感謝祭)では、「国民の父」としてのスハルト大統領が巨大なトゥンパン(円錐形をした黄色いご飯の山)を切り分け、集まってきた市民たちと共食がおこなわれたとメディアは報じていた。つまり、「スハルト・ファミリー」としてのインドネシア国家が演出されたわけだ。しかし、その国家はご承知のように1998年には崩壊し、「想像の共同体」(国家)のあり方も変わった。

バリ芸能祭と神々の島をめざす日本人花嫁

 この時の調査の重要なテーマのひとつは芸能で、バリではとくにバリ芸能祭(Pesta Kesenian Bali)を調査した。これは1979年、当時の州知事だったイダ・バグース・マントラの提唱によって始められたもので、バリの芸能をlomba(コンテスト)とpembinaan(指導・育成)の形式により競い合うことで地域文化の活性化を目指したものだった。私たちは1995年6月にデンパサールのアートセンターでおこなわれた第17回バリ芸能祭を観察した。興味深かったのは、STSI(国立芸術大学)が重要な役割を果たしていたという点である。バリの芸能は、今日、村落社会での伝承というより大学の教育と育成により伝承されていくものになっている。バリ芸能祭はその後も続けられており、2023年には第35回目の芸能祭がメガワティ・スカルノプトゥリ元大統領の参加を得て盛大におこなわれた(YouTube: https://www.youtube.com/watch?v=prVqol9xPmo)。

 もうひとつの調査テーマは観光だった。バリの観光開発は発展の軌道に乗り、当時年間100万人を超える国際観光客が訪れるようになっていた、その内21万人は日本人で、バリ観光は日本人観光客を抜きには語れなくなっていた。とくに若い日本人女性が観光を繰り返すうちにバリ人男性と結婚するという現象が見られ、私はバリ在住の日本人妻にインタビューした。これについては拙著(山下『バリ—観光人類学のレッスン』東京大学出版会、1999年)のなかで論じた。

 今世紀に入ると、若い女性より退職者(高齢者)の移住が目立つようになり、観光と移住の境界が曖昧になって「ロングステイ」という概念が生まれた。国際観光客数は(コロナ禍前の)2019年には600万人を越え、国内旅行者を入れると約1000万人の観光客がこの島を訪れた。こうしたなかで、観光の商業化とオーバーツーリズムが加速している。かつてバリ州がめざした「文化観光」はディレンマに陥り、2002年と2005年には観光地を狙ったイスラム過激派による爆弾テロ事件が起こった。そのために2011年にはGema Perdamaian(平和の祈り)というイベントがもたれ、「多宗教国家」インドネシアの宗教間の平和が強調された。また、調査中に訪れたジャティルイの棚田は2012年に「バリ州の文化的景観:トリ・ヒタ・カラナ哲学に基づくスバック灌漑システム」として世界遺産に登録された。2022年にはパンデミックからの回復と持続可能な世界に向けてG20サミットがバリでもたれた。バリは「ワールド・ポリティクス」の島にもなりつつあるのだろうか。

おわりに—未来へのメッセージ

 ホテルに泊まり、レンタカーを借りて、「役所で」フィールドワークするという調査の方法は、古典的な人類学のフィールドワークのやり方とは異なっている。これには科研費による短期の共同調査ということもあったかもしれない。こうした調査を通して私が学んだのは、学問とは一人ではなく、仲間との相互連携のなかでおこなうものだということである。今回の場合は鏡味さんとの協働だった。また、インドネシアでは、研究者は役人を兼ねた人が多く、役所と大学はつながっていた。今日、日本でも大学は「象牙の塔」ではなく、社会との関わりのなかにこそ研究があるという認識が高まってきているが、社会貢献につながる「応用地域研究」のようなものはできないだろうかと考えるこの頃である(山下)。

 このところ人類学的フィールドワークの特質は何かを考え続けている。ホスト社会に身を預ける経験をし、それを出発点にホスト社会のことを考える、というのが今のところの答えである。そのためにはホストの生活現場に飛び込んで生活することから始めるしかない。それにはできるだけ若いうちがいい。身を預けるためにはホストを信用する必要があるし、生きて返してもらえれば自分のホスト社会についての理解があながち間違っていなかったとの自信にもなる。たとえそこに手前勝手な思い込みが混じっていても、である。その思い込みを少しでも減ずるために、次は少し外から眺め直してみる必要がある。私にとってこの1994/95年調査の国民文化という観点は、バリを外から見る枠になった。その前の村での滞在調査があったから、国による地域社会の取り込みを、地域住民の視点から見てみるというスタンスをとることができたのだと思っている(鏡味)。