聞き手: 大久保翔平(東京大学・教務補佐員)

モデレーター:山口元樹(京都大学)、工藤裕子(東洋文庫・研究員)

※「弘末雅士さんに聞く(前篇)」はこちらからご覧ください。

歴史研究への姿勢:発想・史料・仲間

大久保:先生が歴史研究で大切にしている発想はありますか?

歴史上のある運動を研究する場合には、どういう点が人々にアピールしたのかを明らかにすることを大事にしています。その意味では、政治制度などではなく、具体的に人と人とが接触するところに注目してきました。港市や外来者との交流ということを考えたときには、異なる集団間を仲介する存在を見ていくと面白いのではないかと思いました。

私は、交易ネットワークや広域世界、地域社会を具体的に作っていくのは人だろうと思っています。人を繋いだり、複数の原理が接続するところで顔を使い分けたりすることによって、それぞれの地域社会や広域世界が出来上がっていくと考えてきました。

今は、グローバル化が進展して一つの地球というような観念が強い影響力を持っているわけですが、同時に個々の社会があります。国民国家に今もすがろうとする人々がいるということは、やはり両方を接合したり切り離したりする人の役割がかなり重要なんじゃないかと思います。具体的にそこに介在する人に注目していきたいということです。

大久保:先生は史料を読むということを非常に強調されてきましたが、史料を読むモチベーションや熱意はどういうところから発せられるものでしょうか?

大久保さんとは何年か前に『スジャラ・ムラユ』を読んだことがありましたよね。長年伝えられている伝承、例えば「女人が島」のような海域世界で男が船で遭難したら女性に取り囲まれて死んでいくという話は本当に他愛のない内容ですが、何百年にもわたって語り継がれています。これは色々な解釈が可能でしょう。男ばかりの船の世界の与太話のようなものから発展したことも考えられますが、なぜ男は女性に殺されるのかなどを丁寧に考えていくと含蓄があります。生殖活動には男女が共に参画しますが、お腹の中にいる時から育っていく時期には女性が非常に重要な役割を担う。つまり無から有になるところにおいて女性がそういう役割を担っているとすると、男から見て女性は、有なる存在を無に帰するという力も同時に持っているのではないかと連想するかと思います。

そのようなものが色々と複合的に混じり合い、話が語り伝えられることは興味深いことです。直接的な史実ではなくても、そういうことを語り伝えてきた事実をどう考えるのかということは、歴史学の分析において非常に重要であると思います。

大久保:史料や伝承が作られ、継承されてきた事実自体を読み解く面白さがあると理解しました。一方で先生の長い研究生活の間、悩みや途中で研究がしんどいと思われたりしたことはありましたか?研究を長く続ける秘訣を教えてください。

紆余曲折やでこぼこはあったかと思います。まわり道しながら話を組み立て、他人に聞いてもらいながら、周りに誰か1人でも、面白いんじゃないのと言ってくれる人がいるということは大事ではないでしょうか。そういう意味では、鈴木恒之さん(東京女子大学名誉教授)をはじめ諸先輩や友人には非常に感謝しています。酒を飲みながら、しばらく話を聞いてもらって、うんうんと言ってくれるだけで、それはありがたいですね。これは大事です。

そのことは、外国人研究者との交流についても言えることです。留学時代も外国語でコミュニケーションするとなると、当然ハンディもあるし、うまく伝わるかわからない不安はあります。でも、パーティーになると大体夜中の1時2時ぐらいまでやりますが、それだけ顔を突き合わせていると、自分の考えや相手が言うことがお互いに通じて、感じ取り合うことがあります。交流する場に行くことが好きであれば、何か自分の話や、その言わんとすることを聞き取り、また聞いてくれる、そういう人とも出会います。ありがたいですね。

歴史研究と現代とのかかわり方

大久保:先生は近代史から始まり、近世史も研究され、通史も書いていらっしゃいます。また、東南アジア学会でも会長を務められ、長年活躍されてきました。歴史研究と現代研究は今後どのように関わり、互いに研究し合うべきでしょうか?

歴史研究をやっている研究者が、現代やこれから先のことについて提言することは、むしろ義務だと考えた方がいいのでは、と最近思うようになりました。私は近世から近代に移っていく時代を見てきましたが、例えば国民国家の枠組みがこれから変わるとしたらどのような変わり方をするのかということについて、むしろ近代移行期を丁寧に考えている人間なりの提言の仕方があると思うのです。

近世から近代への移行期だけでなく、古代を研究している人が見た場合に現在はどう見えるか、あるいはこれから先の世の中はどうなるのかということについても、彼らなりの着眼点があると思います。それは当たらないかもしれないので、そんなところまでは言わないで少し禁欲した方がいいと思いがちです。しかし、恥をかいてもいいから、その時代をやっている人ではないと気づかない着眼点がありますので、それは大いに出した方がいい。その上で、現代の専門家の人たちとも意見を交わしながら現在、あるいはこれから先の方向等についても考えていくことになればいいのではないかと思います。勇気もいりますが、歴史学には蓄積もありますから、やはり未来への提言は歴史家の義務ではないかと思います。

大久保:歴史研究者がもっと積極的に提言していくということでしょうか?

もちろん、全てに言えるわけじゃないですから、言える範囲でね。最近出した『海の東南アジア史』の中では、国民国家というものが、もし変わるとしたらということを考えてみました。やはり人と人との接触により、ジェンダー観や家族観、人間集団観、宗教観というものが、かつて近代移行期に変わったということは、これからも変わりうることを示唆しています。人との接触により上述の諸観念に新しいものが提示されると、国民国家と異なる枠組みが生まれる可能性が出てくるのではないでしょうか。

歴史研究者がどんどん言ってくれた方が、やっぱり面白い。歴史研究も現代研究も豊かに活性化していきますよね。

大久保:話はやや変わりますが、『海の東南アジア史』には、現地人女性とか奴隷とか混淆者、人喰いなどの興味深いトピックが並んでいます。そこで、一般読者に配慮してか、昔は使っていたけれど修正した表現が多いことに気がつきました。史料の中に出てきた当時の用語や現象を、現在はどのように表現すればいいのかなと迷うこともあります。そういうことに対して、社会が段々変わってきたとお感じになりますか?

私も『海の東南アジア史』を出す前までは屈託なく、「現地妻」や「欧亜混血者」といった言葉を使っていました。「混淆婚」という言葉も使いました。ところが、ある研究者から、「混血者」という表現は、文化的表象を表す概念としては意味をなすかもしれないけれども、実際に血液が混血しているわけではないので、差別用語になる可能性を示唆されました。

「現地妻」という言葉は、temporary wifeの日本語訳ですが、日本人には一番馴染む言葉だと思っていました。しかし、すでにかなり手垢がついている言葉で、内縁関係を内包し、正式結婚ではないという意味合いで使われています。東南アジアの現地の人にとっては明らかに、temporary wifeは社会が認めている正式な妻です。外来者が帰るときには、一時結婚を解消してもいいという慣習があったわけですね。そこで「現地妻」という言葉は取り下げて、「一時妻」を使うことにしました。日本語としては、あまりしっくりはきませんが。

それから「欧亜混血者」は、「ユーラシアン」という言葉を使いました。ただ、「ユーラシアン」にしろ、「メスティーソ」、「ムラート」にしろ、混血ということを内包している言葉ですから、根本的な解決にはなりません。人種主義が強くなったり、あるいは国民的同一性の観念が強くなったりすると、「混血者」やそれに類する表現が頭をもたげてくる可能性は大いにあります。

それから「混淆婚」はmixed marriage、オランダ語ではgemengd huwelijkの訳語ですが、歴史用語として使われていたことは事実ですので、括弧に入れて使用し続けていくことにしました。現在ではmixed marriageは英語でも差別用語ということなので、「混淆婚」という言葉はそういうふうにして使わないといけないわけです。

大久保:そういう言葉がかつては「常識」であり、「常識」は変わるということを説明していくことも、歴史研究者の仕事かもしれません。一方で、現在の風潮に完全に合わせてしまうと、その研究対象の時代性が失われてしまうような気がします。どのように整合性をとればいいのか、いつも悩んでしまいます。以前、「混血」や「未亡人」、あるいはジェンダーの観点から不適切かもしれない表現を考えなしに使ってしまったことがあり、今でも後悔の念に苛まれることがあります。

私も改めて「混血」という言葉の歴史を紐解いてみたときに、交流史の奥の深さに驚きました。これは荒野泰典さん(立教大学名誉教授)などの著作から勉強しましたが、当初「混血」という言葉を使っていたのは日本人ではなかったようです。一方、江戸時代の初めにイギリス人やオランダ人がやってきて、そして彼らの子孫が日本から追放されていくその原因を彼らは、「混血していくこと」(gemenging)を徳川政権が警戒しているためとしています。

松井洋子さん(東京大学史料編纂所教授)などの研究でわかったことですが、当の日本人は、「南蛮人」との間の子孫に「混血」という言葉は使っていません。日本は家制度がしっかりしているので、その家に帰属していれば、別に「南蛮人」との間の子であろうが、華人との間の子であろうが、それは構わない。ちゃんと日本のある家の子として位置づけられるということです。それが変わるのは幕末で、国際結婚(intermarriage)が出てくると、その生まれた子に対して「混血」という言葉を日本人が使い始めました。おそらく蘭学者が江戸時代に、オランダ人がgemengingという「混血化する」という言葉を使っていたことで、その概念を紹介していたのでしょう。

そして幕末に国際結婚の概念が出てきたときに、特に日本人の妻と外国人との間にできた子を日本人として認めた場合に「混血者」と呼ぶようになります。日本史の研究者の本から学ばせていただいたのですが、日本の人種概念というのもその頃から出てくるようです。

なかなかややこしい話で、これはこれで一つの論文のテーマとして、私も扱いたいと思います。今のオランダやインドネシアは、多文化共生社会を掲げていますので、もはや「混血者」の表現は社会の表舞台から後退しております。こうした経緯を注などで示しながら、他に適切な表現がない場合には、括弧でくくるなどの方法で分析用語としてこの言葉を使います、と断るのがいいのではないかと思います。

東南アジア史研究の魅力を伝えるために

大久保:最近は、歴史研究がとっつきにくいと思う学生が多いのかもしれません。先生が長年大学で教えてこられた中で、東南アジア史に対する学生の関心について、どのような変化を感じられますか。

東南アジアのことに関係する本も増えているし、エスニック・ブームや、旅行で行ったとか、それから、わりあい多いのはお父さんが働いていたというようなことで、なじみがあるようですね。関心自体は以前の時代に比べると着実に高くなっているかと思います。

大久保:一方で大学院に進むほど、東南アジア史研究に関心を持つことは、なかなか難しい気がしています。史料言語とかも難しいですね。

工藤:面白さもアピールがしづらくなってきているのでしょうか。一般教養で東南アジア史を選択する学生は多いようですが、そこからさらに進んで、史料を読み込んだり、大学院で歴史を選択するところまでは、面白さが伝えきれてないというジレンマがあります。一方で、インド史や中国史などの他の地域の専門家との交流では、東南アジア史からの意見を聞かれることも多いですし、面白い議論がたくさんできるのではと思っています。

山口:研究自体は東南アジア史でも発展していますよね。グローバル・ヒストリーも流行っていて、結構いい流れだと思っていますが。

東南アジア史は東西交渉史からの伝統を引いていることもあり、交流史の観点からすると、東南アジアに限らず地域研究に限らず、色々と幅広いところでやった方がお互いの意見交換をする上でも貴重ですよね。山口さんのアラブ系移住者の研究にも言えることですね。地域研究でインドネシア史と限ってしまうのも良いでしょうが、具体的な面白さは他のアジア地域との関係を絡めると、より鮮明になるように思われます。

山口:特に東南アジア史は、他の地域との関係の中でそういう面白さが強く出る分野だと思います。

そういう意味では、海域東南アジア史研究の魅力は、多様な地域との交流により、独自の文化社会を形成してきたことがはっきりと理解できる点だと思います。東南アジアは交流史研究に豊かな材料を提供する場所ですね。面白さという点では、そういうことを伝えることが大事かもしれません。

学生・若手研究者へのメッセージ

大久保:最後に、このインタビューを読んでいる学生や研究者に対して、アドバイスやメッセージをお願いします。

交流史の面白さということと、それから人と人とが接触していくことの面白さを伝えたいです。東南アジアの人たちは、東アジアの人たちと比べると、交流ということに非常に馴染んでいます。それでいて、自分たちの世界というものも持っている。こういう面白さを伝えていくことが重要だと思います。

自分たちの世界の保ち方には、色々なやり方があります。東アジアでは、ついつい外部世界と遮断してそこで修行に励み、個の世界というものを見つめ直すということを主流に考えてしまいます。東南アジアでももちろんそれはありますが、それだけではなく、人と人が交わり、接触しながら自分の世界を持っていくというやり方をうまく保持しているように思えます。私には彼らの方が、独自の世界、自分の世界の保ち方をわりあい多様に持っているのではないかという感じがします。

そういう中で、近代において語られてきたことで、気づかされたことがあります。隷属とか服属と自由と独立の関係です。隷属や服属からの自立は、近代社会を構築する上でのモットーでした。現在でも不当な隷属状態からの解放が、重要であることは言うまでもありません。と同時に人間関係の形成や社会統合においては、服属と自由、隷属と解放というものがしばしば裏と表の関係にあることにも気づかされます。例えば、東南アジアに滞在した外来者のもとにいた家内奴隷や一時妻の女性は、主人に隷属・服属しながら、地元社会との架け橋になることで、自らの自由空間を拡げていく場合がありました。そういう絡みを考えるのも、歴史研究において必要なのではないかと思われます。

そんなことを言うと、それは昭和の人間だからと思われるかもしれません。かつては解放や自由を掲げて闘うことが大事だと思っていました。年をとったせいでしょうか、幅広く服属や従属に光をあてながら自由や解放を考えると、ものごとの多様な側面がみえてくる気がしますね。

一同:本日は、貴重なお話をうかがうことができました。本当にありがとうございました。

インタビュー風景。左から工藤、弘末、大久保(敬称略)

インタビューを終えて

今回のインタビュー企画をいただいた際に、弘末先生とのお話を通じて、ぜひ歴史研究の面白さを再確認したいという思いがありました。工藤さんと山口さんという心強い先輩方に支えられて、弘末先生には研究生活の始まりから研究の背景・軌跡にいたるまで、さらには歴史研究への思いやメッセージを存分にお聞きすることができました。紙幅の関係から泣く泣く削らなければならなかったトピックやエピソード、発言も多いですが、エッセンスは掲載できたと思います。私は博士論文執筆のなかで、文章を書くことや研究史の重みにたじろぎ、尻込みしてしまうこともあります。ですが、今回弘末先生のお話から、人と人の結びつきや交流こそが社会を紡ぎ、波となって世界を形成し、変えてきたのだという歴史上の現象を解き明かすうえで基本的な視点を再認識し、大変勇気づけられました。貴重な機会をいただきありがとうございました(大久保記)。

今回は若手研究者の大久保翔平さんからの率直な質問を通じて、弘末先生のご研究の軌跡やその背景、思いを改めてうかがう機会となりました。先生とは長年にわたり、研究会やその後のアフターセッションの場で、研究のお話をうかがい、ご助言もいただいてきましたが、恥ずかしながらその時には気がつかなかった数々のメッセージの真意をようやく理解することができた気がします。研究対象を時代に応じて柔軟に変化、発展させながら、近代から近世までを考察の対象とされ、現在は再び国民国家へと思索を深められるなかで、どのテーマ、どのような場でも、個とその取り巻く世界や外部との関係性を史料から読み取るという弘末先生の一貫した姿勢を感じながらお話をうかがいました。また、自分自身がどれほど史料にきちんと向き合ってきたのかを振り返り、同時にインドネシアという交流史の面からもとてもユニークな地を研究対象にしていることを再認識する機会にもなりました。このインタビューから、小さな交流から生み出される研究の面白さや、史料の裏側から見えてくる人々の営みや交流のダイナミックさを、感じ取っていただければと思います(工藤記)。