【カパル第5回研究大会シンポジウム関連企画1】
KAPAL第5回研究大会の2日目(2023年12月17日)に、「シンポジウム: 先達に学ぶ」と題して、加納啓良さん、米倉等さんをお招きし、インドネシア研究を志したきっかけや、ご自身のフィールド、研究の展開過程などについてご講演いただきました。ここでは、加納啓良さんが「私のジャワ農村経済研究遍歴」と題しご講演いただいた内容をご自身にまとめ直していただいたものを、前篇・後篇に分けて掲載します。
2021年に『インドネシア-21世紀の経済と農業・農村』(御茶の水書房)という本を上梓した私は、これで研究の第一線からは撤退し以後は余生を楽しむ気分でおります。このたびご用命がありましたので、ジャワ農村経済研究についての私の回顧談を、学会風研究報告ではなく記録写真など画像ファイルをご覧に入れながら紙芝居風にご披露させていただきます。
1.インドネシアへのなれそめ(1960年代後半、学生時代)
私がインドネシアという国にはじめて興味をもったのは1965年、高校3年生のときです。1965年は東南アジアでいろいろな事件が起きた重要な年でした。その少し前、1963年にはマラヤ連邦、サバ、サラワクとシンガポールが一緒になって新国家マレーシアが生まれました。これにインドネシア政府は激しく反発し、翌1964年にときの大統領スカルノが「マレーシア粉砕」(Ganyang Malaysia)宣言を出して対決政策に乗り出します。その結果、1965年1月にインドネシアは国連を脱退するに至りました。もう一方では、ベトナムで戦火が広がります。1964年8月にトンキン湾で北ベトナム軍と米軍の艦艇が衝突する事件があり、これをきっかけに1965年2月から米軍が北ベトナムへの爆撃(いわゆる北爆)を始めます。そして3月にはアメリカの海兵隊が南ベトナムに上陸して解放戦線との地上戦に介入し、ベトナム戦争が一気に拡大していくことになりました。さらに8月にはシンガポールがマレーシアから分離独立を果たします。そしてご承知のように9月30日深夜からジャカルタでは、軍の一部部隊によるクーデタ未遂事件が勃発しました。
この年の4月から私は高校3年に進級しました。同級生の皆が大学を目指した受験勉強中心の生活に入る時期で私もそれに従いましたが、夏休みに入るころは段々飽きてきました。受験と関係ない本でも読んで頭をリフレッシュしたいと思い本屋を覗いたら、NHKの特別報道班が著した『アジアの十字路』という出版されたばかりの本が目にとまりました(画像1)。購入して読むと、インドネシアとマレーシアの政治情勢を現地取材した記録が写真入りで記されていました。軍と共産党の双方の指導者へのインタビューが載っていて両者の対立が非常に厳しい状態になっていることを知りました。それから2カ月も経たないうちに9月30日事件が起きてやはり新聞で大きく報道され、いったいこの国の内情はどうなっているのだろうと興味を持ち始めました。
その後1966年4月に東京大学に入りますが、在学中の4年間は大学闘争とベトナム反戦運動の渦中であんまり勉強には実が入りませんでした。しかし、3年生だった1968年の夏休みに友人と二人で東南アジアを駆け足で旅行しました。そのときにシンガポールを訪れ、夕方に町のはずれの坂道を登っていったら、眺めの良い丘の上にたどり着きました。マウントフェーバー(Mount Faber)の丘で今はロープウェイの通う公園になっていますが、当時はただのはげ山でした。その頂上から海の向こうにいくつかの島が見えました。夕涼みに来ていたシンガポール人の方にその島々について尋ねたら、あそこはもうインドネシア領だと教えられました。その後シンガポールからマレーシア、タイ、カンボジアと回りインドネシアには行かなかったのですが、あの島々の向こうはどうなっているのだろうとあらためて興味をそそられました。
同じ1968年に教養課程を終えて経済学部に進み、西洋経済史のゼミに所属しました。東南アジアのことを学んだわけではありませんが、経済史的な視点が発展途上国経済の問題を考えるのにも役立つと教えられ、参考文献としてJ. H. ブーケの二重経済論の存在を知りました。英訳されたブーケの著作のさわりを覗いた程度でしたが、卒業レポートではそれも参考にしてインドネシアの社会経済のことに触れました。
2.アジア経済研究所就職と本格研究への助走(1971~75年)
1970年に大学を出ていったん民間企業に就職しましたが、アジア経済研究所(以下、アジ研と略)の入所試験に受かったので翌年からそちらに転じました。調査研究部の東南アジア室に配属され、インドネシアの農村経済について研究することになりました。1976年に海外派遣員として初めてインドネシアに渡航するまでの5年間は、現地で調査研究を行うための予習の時期でした。まず取り組んだのは語学の勉強です。研究所の予算を使ってインドネシア語の研修を受けましたが、オランダ語の自習も行いました。研究対象の歴史的背景まで探るには、植民地期の文献資料を読む必要があるからです。また、農村人口が最も多い中・東部ジャワでの実地調査に備えるため、ジャワ語の勉強にも手を伸ばしました。語学の勉強の体験談については、アジ研のWebサイト(IDEスクエア、コラム「語学汗まみれ」)に載っていますのでご覧頂ければ幸いです。
もう一方では、アジ研の研究会に参加しながら農民層分解論、共同体論、土地改革論など関連分野の理論的勉強も行いました。クリフォード・ギアツの有名な「農業インボリューション」論を印象深く読んだのもこのころです。またオランダ語の勉強を兼ねて19世紀後半のジャワ農村の土地制度に関する全3巻の報告書(画像2)を読み、その要点をまとめた「十九世紀ジャワの土地制度と村落共同体」という題の論文も書きました。この論文は英訳されて、オランダやインドネシアでも注目され、のちに両国の研究者たちと協力のネットワークを築いていくのにも役立ちました。とはいえ、この時期はまだインドネシアへ行ったこともなく、その後に現地での調査体験を踏まえた本格的研究に踏み込んでいくための予行演習、いわゆる「畳の上の水練」に励んでいるという状態でした。
3.アジア経済研究所海外派遣員の2年間(1976~78年)
1976年に厄介だった調査許可とビザ取得の手続きが終わり、アジ研の海外派遣員としてインドネシアに赴くことになりました。赴任先は、ジョクジャカルタにあるガジャマダ大学の経済学部です。客員研究員の形でここをベースに中・東部ジャワの農村経済調査に挑むことにしたのです。事例調査として中部、東部の両地域から1ヶ村ずつ選ぶことにしましたが、何を基準にどんな村を選んだらよいのか、はっきりした基準を設けることはできませんでした。インドネシアでは1971年に独立後2回目の人口センサス調査が、また1973年には最初の農業センサス調査が行われており、その結果が刊行されていましたが、それらのデータを見ても州より下位の地方レベルにおける農村経済事情は推測することも不可能でした。
そこであれこれツテを頼りながら、まず東部ジャワについては東ジャワ州マラン県ゴンダンルギ(Gondanglegi)郡のパグララン(Pagelaran)村ムンタラマン(Mentaraman)区を、次いで中部ジャワについてはジョクジャカルタ特別州バントゥル県プンドン(Pundong)郡のスリハルドノ(Srihardono)村サワハン(Sawahan)区を選びだし、この2集落で各世帯を戸別訪問して聞き取り調査をすることにしました。明確な基準によったわけではありませんが、次のようにタイプの異なる村を選んだつもりでした。まず前者は農民自身がサトウキビの栽培による商品作物栽培に慣れており、村内の土地所有の階層分化がかなり進んでいて社会・政治的な面ではイスラームの影響が濃い村でした。それに対して後者は、製糖工場が管理するサトウキビ栽培が行われているものの農民自身による商業的農業はあまり盛んではなく土地所有の階層分化が進んでいないが、都市部への通勤も含めて農業外の就業機会が多く、1960年代前半には共産党(PKI)の強い影響下にありました。
パグララン村で1976年の調査時に撮影した写真をご披露しましょう。最初は村の集会場(balai desa)です(画像3)。左側にちょっとだけ覗いているのが村役場(kantor desa)の建物です。集会場の裏側の竹壁は穴だらけです。まだ貧しかった時代を象徴するような姿です。次は水田で稲刈りを終えた農業労働者(buruh tani)たちの写真です(画像4)。刈り取った稲穂を束ねて天秤棒で持ち帰ろうとしています。当時の稲刈りにはまだ根元で刈る鎌ではなく、稲穂の上部で摘み取る収穫ナイフのアニアニ(ani-ani)が使われていたことが読み取れます。また当時の農業労働者は、若い屈強な体格の人たちが多かったことも分かります。現在は農業労働者の高齢化が進んでいます。三つ目は、2頭の牛を使い犂(インドネシア語はbajak、ジャワ語はluku)で田植え前の水田を耕している写真です(画像5)。今はもうハンドトラクター、つまり日本で言う耕耘機が普及して、このような姿を見るのはまれになってしまいました。四つ目は、村の市場の入口で撮った写真です(画像6)。馬車(dokar)が写っていますが、当時はこれが村と村を結ぶ普通の交通手段でした。
次に1977年のサワハン区の姿を映像でご覧に入れます。最初は、村の入口で私が座っている写真です(画像7)。次は、農民のひとりが柄の長いひしゃくのような道具で水田に水やりをしている様子です(画像8)。当時は灌漑用水路がこわれており、こんな方法で末端水路から水を引いていました。遠くに見えるのは川向こうのグヌンキドゥル県の丘陵です。当時は貧しいはげ山が続いていましたが、その後の緑化政策の推進により今は緑豊かな景観に変わっています。三つ目は、ジャワ暦の8月(Ruwah)に行われるルワハン(ruwahan)という名の会合に招かれたときのものです(画像9)。村の中の墓地へお参りしたあと皆で菓子を食べながらお茶を飲む伝統行事で、日本のお盆に似ているなと思いました。最後は村の女の子たちの写真です(画像10)。子供はみな裸足でした。中央後ろに座っているのは、米の行商をしていたおばさんです。彼女の夫は1960年代前半にあった村の共産党系青年組織のリーダーで、共産党員だった村長とともに政治囚として捕らえられブル島へ送られていました。村長は獄死しましたが、彼は無事に生き延びて釈放され1980年代に村へ戻りました。
2つの村の現在の様子を、Google Earth の衛星写真で眺めてみましょう。画像11はパグララン村です。1976年のパグララン村はゴンダンルギ郡に属していましたが、1999年に近隣の9ヶ村とともに分離独立し新設されたパグララン郡の郡役場所在地になりました。郡役場の所在地が写真の右上部に記されていますが、1976年にこのあたりには目立つ建物は何もありませんでした。また画像3でお目にかけた集会場の隣の村役場は、この写真でPagelaran と書かれた地点の近くにありましたが、今の村役場は写真の右下部に移っています。画像6でご覧いただいた村の市場(Pasar Pagelaran)の位置は1976年当時と同じです。この写真を見て驚くのは、ショッピングモール、化粧品店、アートギャラリー、ベーカリーなど昔はまったくなかった店舗や施設が村のなかに出現していることです。農業外の経済活動と就業機会が大きく広がったことが読み取れます。
次に画像12はサワハン区です。1977年に私の写真(画像7)が撮られたのはA点、水田の水やり(画像8)を撮影したのはB点のあたりです。景勝地のパラントリティス海岸へ向かう大通りをはさんだA点の向かいには、その名もParisという土産物販売センター(pusat oleh-oleh)ができているのには驚きました。1977年当時、ここには何もありませんでした。同じ大通り沿いには料理店が2軒も見られます。1977年には、ジョクジャカルタの町を出てからここまでの間に目立つ料理店は1軒もありませんでした。また村のなかには、建設業らしい会社(CV Patra Kotrindo)や家電販売店に加え、ペットショップ、エステティックサロン、ファッションアクセサリー店などがあるようです。やはり1977年には想像もできなかったような都会風のビジネスが広がっていることが分かります(1970年代はどちらの村もまだ電気が来ていませんでした。電化されたのは1980年代のことです)。
※「加納啓良さんが語る(後篇)」はこちらからご覧ください。