聞き手:柴山元(京都大学大学院・院生)、中鉢夏輝(京都大学大学院・院生)

モデレーター:水野祐地(アジア経済研究所)

 「インタビュー:先達・先輩と語る」第5回は国際交流基金理事の佐藤百合さんにお話を伺いました。

 佐藤さんは、1981年にアジア経済研究所(以下、アジ研)に入所した後、企業グループや産業発展をはじめとするインドネシアの政治経済に関する研究を40年にわたり行ってきました。『経済大国インドネシア』(中公新書、2011年)のほか、『インドネシアの経済再編』(アジア経済研究所、編著、2004年)など多数の研究成果を発表されています。

 今回のインタビュアーは、インドネシア地域研究を行う傍ら、普段から地域研究という学問のあり方を議論している2人の大学院生です。モデレーターには、2人の大学院の先輩であり、佐藤さんの元職場(アジア経済研究所)の後輩である水野祐地さんをお迎えしました。今回のインタビューでは、佐藤さんに「インドネシアとの出会い」と「産業研究を通じた地域研究に対する考え方」についてお話を伺いました。以下、2023年8月23日に国際交流基金においてハイフレックス方式で行った約2時間のインタビューより、そのエッセンスを2回に分けてお届けいたします。

インドネシアとの出会い

中鉢:本日はよろしくお願いします。早速ですが、学部時代はインドネシアではなく、インドに関心があったとお聞きしました。

 大学時代には、社会学者の鶴見和子先生のゼミに所属していました。その鶴見先生に、「ある国・地域の社会が変動していくときには、どこかに必ず震源地があり、そして震源地には変動を起こしているキーパーソンがいる」ということを教わりました。「震源地はどこか」「キーパーソンは誰か」「どのような主体がどのような思想を持って、どのような目的で、どういう行動をとっているか」ということを考えることは、とても面白そうだと思ったのが大学2年生の時のことです。

 鶴見先生からは、「内発的発展論」という概念も教わりました。つまり、我々が近代化論と言って西洋の理論から学ぶのは、彼らの西洋社会での内発的発展をロジカルに理論化したものにすぎず、それが全てではなくて、日本には日本の、それぞれの地域にはそれぞれ固有のロジックで目指した内発的な発展パターンがあるというものです。そこで、この内発的発展論というのを何かの事例に当てはめて研究してみたいと思いました。特にその時は、これからは発展途上国が面白いだろうと思いました。それに鶴見先生も、日本のことをやってもいいけれど、世界のことをどんどんやったらどうか、と常々言われていたので。

 ただ、私は英語しか読めませんでした。発展途上国を研究しようとした時、書物がいっぱいあるのがインドでした。それからインドは動きが見えやすいという感覚がありました。鶴見先生が「この本面白いわよ」と紹介してくれるのはだいたいインドの書物でした。それで、インドについての論文を3本書きました。大学3年のゼミ論では、政府が指導してある州で行った上からの「ルーラル・モダニゼーション」と、部族民による下からの土地奪還運動「ブーミ・セナ」の2つを読み込んで、発展プロセスを比較しました。4年の時のゼミ論と卒論では、宗教改革運動・ 民族運動と独立運動について書きました。そこでもやはり、キーパーソンというのは誰で、その人が何を考えているのか、ということにすごく興味がありました。

中鉢:佐藤さんは大学学部を卒業後、新卒でアジ研に入所されました。そして、入所後にインドネシア研究を始めたと伺っています。

 アジ研に運良く入った時に、インドネシアと経済という2つの新しいものと出会いました。入所初日の4月1日に「あなたはインドネシア担当です。少なくともこの先10年はインドネシアをやってください」と上司から言われたんですね。大学時代の私はインドが好きだったし、論文も3本書いたので結構思い入れもあったのですが、別にインドに一生捧げようと思ってはいませんでした。ただ、発展途上国の社会変動には興味があって、そのロジックを内発的発展論を用いて考察してみたいという考えはずっと持っていました。だから、こういう研究ができるならば、自分のフィールドはどこでもいいと思っていたんです。

 インドネシアを担当することになった時、当時アジ研の動向分析部長だった木村哲三郎さんに「経済という名のつく所に入ったんだし、とりあえず経済を学んでみろ」と言われました。それで、経済学についてゼロから勉強を始めたんです。インドネシアも経済も、複数の勉強会を作って先輩たちと学んでいきました。毎回教科書を1章ずつ読んでこいと言われて、木村さんに口頭で試験をされました。ここで初めて経済学に触れて、ロジックの立て方などを鍛えられました。それを使うかは別として、かっちりした理論を持っているというのはやはりとても大事なことだと実感しましたね。

 当時、アジ研では動向分析という仕事を任されました。その年のインドネシアでは何があったのかを記録するんです。私の場合、 政治・経済・外交のすべてについて日誌を作って、その日誌をベースにしてインドネシアで起きたことをまとめるというのが仕事でした。これをしばらく続けて、入所4年目に海外派遣という制度を使ってインドネシアへ行きました。この海外派遣制度は、入所後3年のうちに何か自分のテーマを見つけて、 調査プロポーザルを書いて、審査に通れば海外に出してもらえる、という制度でした。

中鉢:調査プロポーザルを書くにあたって産業研究や企業グループの研究に焦点を当て始めたのですか。

 そうですね。1〜2年目に毎日インドネシアを観察し、日誌をつける中で、社会変動の中心にいるキーパーソンが誰なのかを常に意識していました。そこで重要だと思った存在が2つありました。1つが「ゴルカル」で、もう1つが「企業グループ」でした。私が動向分析を担当していた1980年代前半というのは、スハルト体制の権威主義的な制度が完成形に近づいていく過程で、スハルト体制の初期には目立っていなかった新しい集団が勃興していました。その中で、ゴルカルという得体の知れない存在は大事そうだ、と思ったのです。

 それから、例えば経済のことを調べていると、「トヨタ・アストラ」という名前がよく出てきました。「トヨタ」はわかるんですけど、「アストラ」が何かわからなかったんですね。それで、先輩たちに聞いてみましたが、「アストラはトヨタの現地パートナーだよ」と、それ以上の答えは返ってこなくて、誰がやっている、どういう企業なのかが気になりました。調べてみると、「アストラ」は実は、トヨタだけではなく、 ホンダの2輪車やコマツの重機も扱っているなど、さまざまなことがポロポロと出てくるわけです。ただ、新聞などを読んでも、一体誰がやっているのか、というのがあんまり見えてこないんですね。現地に行かないとその実態は見えてこないだろうと思いました。

 プロポーザルを書くにあたって、ゴルカルか企業グループのどちらにしようかと考えたのですが、当時ちょうど経済学を学んで面白いと思い始めた頃だったので、企業グループに焦点を定めることにしました。思い返してみると、産業研究や企業グループの研究を始めたのは、経済研究を志していたからというよりも、インドネシアの社会変動の震源地にいるキーパーソンがどのような人で、その人がどういうことを考えて、どのような行動をしているのか、ということが気になり続けていたからだと思いますね。

インドネシア大学の学生として

中鉢:初めてインドネシアを訪れたのは、4年目の海外派遣のときでしょうか。

 実は、最初にボーナスが出た1年目の冬に大好きなインドに行って、その帰りにインドネシアに寄ってきました。で、海外派遣に行く前にもう1度行きました。私が海外派遣へ行く前、インドネシアの調査ビザが下りずに苦労しているアジ研の先輩の姿を見ていて、私は同じ目に遭いたくなかったので、インドネシアの大学に正規の学生として入ることを思いつきました。それで、インドネシア大学の大学院(Fakultas Pascasarjana)の学部長のもとへ突撃して、頼み込んだんです(笑)。「インドネシア大学の大学院に外国人が入ったことは、今まで一度もない」と言われてしまったんですが、「外国人が入学しちゃダメなんですか?」と聞くと、「いや、ダメなことはない」と言われて。「じゃあ、試験だけでも受けさせてください」と言って、外国人として初めて入学試験を受けさせてもらう許可を取り付けたんです。さらに、「でも、私は貧乏でお金がないんです。今回来たのでお金がなくなってしまいました。日本で試験を受けさせてください」と交渉して、日本にあるインドネシア大使館の中で試験を受けさせてもらえることになりました。

中鉢:そんなことが可能だったのですね。交渉はインドネシア語でされたのでしょうか。

 8〜9割が英語だったかな。その時は始めたばかりだったからしょうがなかったです。もちろんインドネシアに行く前に週に1時間くらいの語学研修はあり、ダルマワンさんという留学生に習っていました。最初の5分ぐらいはインドネシア語なんですが、その後は日本語になってしまって(笑)。ダルマワンさんは東工大で学位を取った華人の方で、彼の日本語は非常にうまかったので、語学研修としての意味はほとんどなかったのですが、 インドネシアのことはいろいろと教えてもらいました。

 一方で、大学院での授業はすべてインドネシア語でした。テキストは英語が多かったので、授業にはなんとかついていけました。下宿に行っても大学に行ってもインドネシア語だけ、という世界に入って、数ヶ月してやっとインドネシア語が口から出るようになりました。すごく時間がかかりましたね。

中鉢:1985年から1989年にかけてインドネシア大学大学院経済学研究科の修士課程に在籍されて、1995年から2001年にかけて同研究科の博士課程に在籍されたんですよね。

 はい。ただ、インドネシア現地に滞在したのは、修士課程と博士課程の間の3年ずつです。それぞれ、3年間の現地調査を終えたあと、修士論文と博士論文の試験を受けるために再度渡航しました。修士課程の時は、企業グループに焦点を当てて研究を進めたのですが、水野広祐さん(当時・アジ研研究員)に「ビッグビジネスばかり見ていてはインドネシアの経済がわかるわけがない」と言われて、博士課程の時には、大企業と中小零細企業との「インターファームリンケージ(Inter-firm Linkage)」をテーマにしました。

 修士論文では、1969~85年に設立された授権資本1億ルピア以上の4,496社の大企業データベースを構築したうえで、47の企業グループを析出し、各グループの企業数、所有経営者の出自、事業基盤、発展パターンなどを分析しました。その際に、「官報付録(TBN: Tambahan Berita Negara)」 という資料に着目しました。インドネシアには、すべての株式会社は定款を公告しなければならないという法律があって、その定款が官報付録に載っているんです。官報付録は、インドネシア大学法学部の法文書センター(Pusat Dokumentasi Hukum)が揃えていました。そこで私は、官報付録所収の株式会社定款から授権資本1億ルピア以上の企業をひたすら選び出して、手書きで1社1枚のシートを作り、それを当時出始めたばかりのパソコンに打ち込みました。

 このTBNは、ダルマワンさんが「面白い人がいるから是非会った方がいいよ」と言って、紹介してくれたクリスティアント・ウィビソノという方から教えてもらいました。彼は、官報付録をもとに高額の企業ダイレクトリーを作って売っていたわけですよ。彼は「これを実際に使ってる人は2人ぐらいしかいない。1人は自分」 と言っていました。もう1人がリチャード・ロビソンでした。1978年の彼の最初の論文もこれを使っていました。

企業グループの「内側」のロジックを理解する

水野・中鉢:いま、リチャード・ロビソンの名前があがりましたが、彼はインドネシアの産業構造を政治国際経済の文脈に位置付けて分析した代表的な研究者として知られています。佐藤先生のご研究とこのロビソン氏の研究には、どのような着眼点の違いがあるのでしょうか?

 ロビソンは、いわゆるチュコン・リスト(政権との密接な関係を持つ華人企業のリスト)などのジャーナリスティックな富豪ランキングが1970〜1980年代に出回る中で、インドネシアにおける経済アクターからみた資本主義発展、あるいは資本家の勃興に着目して、それを学術研究レベルに一気に引き上げた非常に重要な研究者だと思います。そのロビソンをどう評価するかは、私の目から見ると2つの面があります。

 ロビソンの研究の特徴の1つは、アクターをカテゴライズして、固有名詞をたくさん出しながら、それぞれがどういうロジックで動いているのかに着目すること、とりわけ資本家の形成に着目することです。これは、私がいつも「キーパーソンは誰だろう?」「誰が何を考えてるんだろう?」っていうことを考えているのに非常に近い。

 もう1つの特徴は、ロビソンの研究は階級論的だということです。たとえば、ロビソンの著書に『Indonesia: The Rise of Capital』(1986)がありますが、そこでは階級分析(class analysis)が展開されている。私の修士論文の指導教官であるモハマド・サドリさんは、ロビソンのことを「彼はマルクス主義者なんじゃないの?」と言ったことがあります。ロビソンは資本家層を批判するために本を書いているわけではないのですが、資本家層に対して労働者階級・一般庶民が存在する、という認識があったのだと思います。それがのちにヴェディ・ハディスとの共著で論じられるオリガーキー論につながっていく。『Reorganising Power in Indonesia: The Politics of Oligarchy in an Age of Markets』(2004)は、非常に注目されましたよね。

 この2番目の点に関して、ロビソンは「民主化しても権力と富の結託関係は結局変わってない」という議論をしています。つまり、搾取する側として権力者と資本家の階級があって、その一方に搾取される側として大衆あるいは労働者階級がいる。古典的なマルクス主義的な見方ですよね。これは一種の悪玉・善玉論でもあります。

 ただ、こうした議論には、例えば汚職の巣窟のような悪玉とされるものが存在して、それを監視して、批判をして、矯正をしていくべきだという前提が存在します。つまりこれは、社会科学というよりも、ある規範にもとづく監視活動であり、社会の矯正運動として意味を持つものだと思っています。もちろん、それはそれで非常に意味があることだとは思うのですが、私はそういう立場からは一線を画しています。私はまずデータを集めて、データがない場合は自分でそれを構築し、そこから何か、今までよく見えなかったものを見出していきたい。非常に帰納的な作業ですけどね。

 たとえば、戦後の日本では、財閥は悪玉だとみなされがちだったわけですが、経済学者の岡崎哲二は、戦前の財閥の存在理由を「従来の独占的アプローチではなく効率性アプローチから説明できないか」と考えました。私も同様に、スハルト時代の財閥であるサリムやアストラの存在理由について、「とにかくスハルトと癒着することで全部独占していた」というストーリーではなく、「彼らの中で何らかの、その他の企業家に比べて効率的なガバナンスの優位性があったからこそ、より拡大したのではないか」というストーリーを考えました。サリムあるいはアストラ、シナルマス、そういうところが大きくなってきたロジックがあって、どういう戦略があったのか、そこを見ることこそが面白い、と考えています。

※「佐藤百合さんに聞く(後篇)」はこちらから