聞き手:柴山元(京都大学大学院・院生)、中鉢夏輝(京都大学大学院・院生)

モデレーター:水野祐地(アジア経済研究所)

※「佐藤百合さんに聞く(前篇)」はこちらからご覧ください。

激動のインドネシア社会に暮らす

中鉢:博士課程在学中の1997年にアジア通貨危機があって、1998年にはスハルト体制が崩壊しました。激動するインドネシア社会で調査研究をしてきたというのは、僕からしたら信じられないようなことです。

 1980年代に私が修士課程にいた時は、「100年経ってもこの国はこのまま変わらないんじゃないか」と思うくらい、悠久の時間が流れていました。博士課程に入って2度目にインドネシアに長期滞在した時は、スハルト体制の爛熟期で、その頂点から一気に奈落の底に落ちていく、という時期でした。

 まず、メガワティが反スハルトのシンボルとして彗星のごとく現れました。一介の主婦だった彼女が突然表舞台に現れたことで、スハルト側はそれを潰そうと、インドネシア民主党(PDI) のオフィスを打ち壊しに行くわけです(1996年「7月27日事件」)。それに対して大衆が怒って、 一種の暴動を起こしました。これは私の家と大学の中間地点でしたから、私も取り巻き群衆に混じってそれを見ていると、周りの人たちは手をたたきながらも「壊しても何にもならないけどね」とつぶやくのが聞こえました。仮設の党本部で、メガワティが演説に登場してきた時には、大歓声が地響きのように湧き上がって腹の底に響いた感触は忘れられません。

 1997年に通貨危機が始まると、買い占めパニックが起こりました。物価が毎日上がっていって、大型スーパーに行ってみると、お米や食用油の棚が見渡す限り空っぽになっていました。ルピアが暴落した日、一緒にいた中小企業者の人たちが、青くなりながら冗談を言って笑うのをみて、心底驚きました。政治も経済も社会も先が読めないなかで、人々が何に笑うのか、泣くのか、怒るのか、それを私も一緒に体験して、それが私の血肉になっていったように思います。

 インドネシアに初めて滞在する前から、毎日インドネシアの新聞を読んでいたのですが、読んでいても本当に何を言いたいのかがわからなかったんです。アジ研の先輩には「行間を読め」と言われましたが 、行間どころか行を読んでいたってわからない。常に頭にクエスチョンマークが10個くらい並ぶような状態でした。1980年代に3年間インドネシアで過ごしてみて、クエスチョンマークは10個から5個くらいに減ったのですが、まだ隔靴掻痒というか、肝心なところに触れてない、という感じでした。

 インドネシア語が少しできるようになっても、それでインドネシアが理解できるようにはならず、相変わらずスハルトが何を考えているのかも全然わかりませんでした。さらに、1990年代になったら、今度はスハルト自身がステップダウンしていくわけです。この激動の時期にインドネシアにいたことで、本当に何重にも気づきがあったといいますかね……。そこで初めて私自身がインドネシアに寄り添えるようになって、初めて自分の言葉でインドネシアを語れるようになったと感じました。インドネシアのことを勉強し始めてから足掛け15年くらいかかっているわけです。

水野・柴山:1998年5月のジャカルタの反華人暴動の時に、佐藤さんがちょうどジャカルタにいたとお聞きしたんですけど、その時の話を少しだけお聞きしてもよろしいでしょうか。

 私がインドネシアに滞在していたのは1996年3月から1999年3月ですが、ティン(Tien)夫人が急死すると、そこからスハルト体制の歯車が狂い始めました。それから通貨危機が来て、1998年5月の暴動で崩壊のクライマックスを迎えたわけです。

 まず5月12日にトリサクティ大学で学生が狙撃されて死ぬという事件が起こりました。どうやら上の道路からプロのスナイパーによって撃たれているんですよね。私もちょうどその数時間後にそこをバスで通ったんです。デモが解散した後だった。翌日に学生の葬式が大学であり、その日、13日の夜から北の方で放火みたいなものが始まりました。

私はそのとき中学生と小学生の子供を連れてきていたんですけど、やはり一番気にしていたのは子供の安全でした。翌日、学校に行かせない方がいいと思ったのですが、スクールバスは普通に迎えに来ました。それで、うちだけ休ませるのも嫌だと思ったのでバスに乗せました。そのあと、午前11時ごろに学校から電話がかかってきて「暴動が南まで下がってきたので帰れません。ちょっと様子を見ます」ということになったのです。あとからわかったのですが、校長先生は前日の晩からの動きについて何の情報も持っていませんでした 。

 とにかく北から何か暴動みたいなものが起きていて、刻一刻と南に下がってきているというのがわかったので、まずうちで働いていたお手伝いさんにお米やラーメン、油などを南の方へ買い物に行かせたんです。それはすぐに帰ってきて、今度は私が買い出しに出かけたんですけど、買ってる最中に「暴徒が南におりてきたので、あと30分で店を閉めます!」すぐ後に「 あと10分で閉めます!早く出てください!」と言われて。とにかく買えるものだけ買って帰りました。

 当時私が住んでいたところの近くに小さなスーパーがあったのですが、そこも暴徒にやられるという話があったので、お手伝いさんの旦那さん(ヤントさん)についてきてもらって現場を見に行きました。私は華人に見えるかもしれないのですが、ヤントさんが「僕がいればなんとか大丈夫だと思う」と言ってくれたので現場へ行ってみると、スーパーのところに人だかりができていました。何人かがガラスを打ち破って店内に入ると、みんなが「わーっ」と拍手をするんです。そして中から売り物のテレビなどを持って出てきました。

 ヤントさんは人々が略奪する光景を見て、「あの人たち、ここの住民じゃないよ」って言うんです。私にはあまりわからなかったのだけど、見る人が見るとわかるんですよね。地元の人は、拍手をしてその場の空気に迎合していました。たしかに、住民たちは反スハルトという意味で拍手するのだけど、一方で「これは外から来てる人たちだ」ともわかっていて、冷めている様子でした。

 それからタイヤなどを燃やすのにも燃料が必要です。いろんなところで煙が上がっているんだけど、その日は不思議なほど警察や軍がまったくいませんでした。だからこれは、外から何らかの力が働いていて、ボトムアップの運動ではないと感じました。襲撃されているのも、政府系の建物 のほか、スハルトのいとこのスドウィカトモノ(サリムグループの設立者の一人)がやっているスーパーマーケットや、スハルトの三男のトミーがやっているスーパーマーケットなんですよね。狙いをつけてやっていると感じました。

 私は北の方のことは直接見ていないのですが、華人が襲われたという話もあります……。結局子供たちはその日家に帰れず 1,000人近くが学校で寝泊まりして、暴徒も寝静まった翌朝の午前3〜4時に帰ってきました。実際に子供を人質に取られるというのはきつかったです。あの夜は一睡もできなかったし、あの心持ちは忘れられません。

佐藤百合さんにとってのインドネシア地域研究とは

 柴山:ここまでお話を聞く中で、佐藤さんは、インドネシアへ赴き現地で働く人々の声に耳を傾ける調査をとても重視しているように思いました。こうした研究姿勢というのは、いつ・どこで・誰から・どのような影響を受けて身に付けたのでしょうか。

 私が前にいたアジ研には、地域研究と開発研究という2つの大きな柱があります。そのアジ研で4〜5年に1度くらいの頻度で「地域研究とは何か」ということを話し合う集会が持たれます。みんなで侃々諤々と議論を戦わすんですけど、結局「これだね」という感じに全員が一致することは、かつて一度もなかった(笑)。なので、これはおそらく正解はない永遠の課題だという気がします。

 私自身のアイデンティティは、インドネシア地域研究者なんです。私の研究者としての根っこには、鶴見和子の社会変動論があり、内発的発展論があります。そしてアジ研に入ってからは、アジ研初代所長の東畑精一が唱えた現地主義という思想に影響を受けました。「研究者は『心をむなしうして』新興国の現実のなかに自らを没入して、そこに湧きでてくるような経験的事実をとらえ、これについての解釈や分析をなすべき要がある」「後進の新興国の人々の生活と生産の営みのなかにこそ、アジアを語り、アフリカを伝える「野の言葉」があるであろう」(『アジア経済』100号記念特集号序文、1969年)というものです。さらに「地域研究の究極の目的は丸ごと理解だ」 という末廣昭さんの言葉に影響を受けました。インドネシアを丸ごと理解するのは、一生かかっても無理なことだけれども、それが常に究極の目的だと意識して、「その丸ごとの中で今自分はここに当面のテーマを設定する」という立場が私の地域研究だと思っています。

 それから、「特定の地域に沈潜することに意味はあるのか?」「いやいや、比較して初めてその地域の特質はわかるのだ」という議論もあります。本当にその地域が特殊かどうかということは、相当突き詰めないとわからないものです。しかし、その特殊性を突き詰める過程で、むしろ普遍的な部分が浮かび上がるかもしれない。これは東畑の「個を通じて全を考えよ」という言葉にも通じます。東畑は、「多くの国に共通する問題は、それぞれの国にそれぞれの衣装をまとって、個性的に現れてくる。その個性をみごとに描くことは、共通の課題を無視することではなくて、かえって個を通じて全を浮かび上がらせることにほかならない」(同上)と言っています。ある事象が本当に特殊なのかと突き詰めていくと、普遍的な部分がその中から見えてくるのです。

 また、「地域研究とディシプリンの関係とは何なのか?」という問題もあります。「地域研究はディシプリンなのか?」「いやいや、地域研究とディシプリンとは縦糸と横糸で両方が必要なんだ」「学際的なのが重要だと言うけれど、それはどう考えればいいのか?」など、地域研究に関してはこうしたことが常に議論されますが、これに対する私なりの答えは、「これは両方必要よ」ということなんです。ですから欲張りなんです(笑)。

 ただ、私は、経済学的な研究と地域研究として経済を研究することは別の作業だと思いますし、私自身は主に後者の研究をやってきたつもりです。だけど、たとえば二輪オートバイの部品サプライヤーの研究では、経済学のジャーナルに論文を出そうとしていて、経済学の知見に何をプラスできるかということを頑張って考えています。だから、地域研究とディシプリンは両方必要で、経済学の既存の理論はもちろんきちんと理解しなければならない。その一方で、地域研究として経済を研究するときには、地域で起きているある事象を説明するためにはどの既存の理論を組み合わせるのが最も適切かを考えることになります。その意味で、地域研究者には自由度があると思います。自由度という言い方は相当オプティミスティックですけど。そこをどう組み合わせるかが、研究者の腕の見せ所なんですね。しかも、いろんな組み合わせ方があるから正解はない(笑)。中鉢さん、柴山さんがんばってね。

柴山:はい、ありがとうございます。地域研究は、さまざまな考えやディシプリンの組み合わせが自由であるからこそ面白いのですが、やはり組み合わせることは簡単ではないですよね。佐藤さんはいろいろなものを組み合わせるということを、どのように学ばれたのでしょうか。また、アジ研ではなにか特徴的な地域研究のトレーニングというものが行われていたのでしょうか。

 「これをトレーニングしなさい」というのはなかったと思います。ですけど、「今、この1年間のインドネシアをつぶさに観察しろ」と言われて観察する「現状分析」という業務は、正解がないものですが、実は一番鍛錬されるところでした。観察して重要なポイントを自分なりに見出し、論理立てて文章を書いていく作業は大変ですが、鍛えられます。そして、5人くらいの先輩から書いたものを添削されます。真っ赤にされてゴミ箱にポイっとされて、泣いたりしました(笑)。水野さんどうですかね、今も何人かに赤を入れられますか?

水野:赤は入りますね(笑)。

 そっか、その伝統は今もあるんだ。それが地域研究なのかといわれるとよくわかりませんが、いろんな人に「あんたの理解は浅い」とか「いや、こうじゃない」とか「これはどういう意味なのかわからない」とか言ってもらうのはやっぱり、思考の鍛錬にはなりますね。特別な地域研究の鍛錬というのはおそらくないのですが、研究者としての基本的な準備体操みたいなことはやらされますね。

 それから、自分がキーパーソンとして目をつけた人に直接会いに行くということには、やはり意味があると思いました。私はサリム・グループについて書くときに、その中心人物であるリム・スィウリォン(林紹良=スドノ・サリム:サリム・グループ創始者)に一度だけ会って直接喋りましたが、ほんの短い時間でしたけど、その時に見た彼のもの腰、表情やしゃべり方、発音、私が言ったことに対する彼の応答など、その一つ一つがすごく重要な意味を持っていたと思います。私はキーパーソンと会う時には、会う前にその人について調べ尽くしてから会いに行くのですが、それだけ準備をしても、クエスチョンを投げかけた時に、予期せぬ答えが返ってくる方が多いんですね。そのとき、相手がどういう表情でいるのかということまで含めてホーリスティックに観察・理解することがすごく大切だと思います。こうした場所で得た情報は、長い目で見てとても大切な財産になると思いますよ。

柴山:最後に、佐藤さんがインドネシアをその研究対象として研究活動に取り組んできた中で、これは特に最も大切にしてきたな、ということがあったらお聞かせ願いたいなと思います。

 最も大切に……。難しいねえ(笑)。私がインドネシア地域研究をずっとやってきたことの心持ちは、「インドネシアを分かりたい一心」だったと思います 。そして、この態度の背景には、社会・経済が動いていくとき、そこには何か震源地のようなものがあって、「震源地の中心にいる人達は何を考えているんだろう?」と20歳の頃からずっと考えてきたということがあります。だから経済の動きを理解したいという前に社会の動きを理解したい、その人の考えを喜怒哀楽全部含めて理解したい、という思いがありました。

一同:本日は貴重なお話を伺うことができました。誠にありがとうございました。

左から、佐藤百合、柴山元、水野祐地、中鉢夏輝(敬称略)

インタビューを終えて

 私自身、学部時代をアラビア語専攻で過ごしていましたが、「イスラームと環境」というテーマに対する理解を深めるために、大学院進学後からインドネシアへと研究対象を拡げました。そして、インドネシアのエネルギーや開発について調べ物をしているときに、佐藤さんの論文をはじめて読み、地域研究ならではのインドネシア経済の捉え方があることを知りました。このインタビューの数日後、私はインドネシアで長期現地調査を始めました。まさにいま、インドネシア社会で起きていることの「内側の論理」をわからないながらも理解しようと、手探りで研究生活を過ごしています。そういったことからも、現地の人々とともに生き、彼らがどのようにして泣き、笑い、考えているのかを常に考えながら、社会科学として有用なデータを自らの手で集め、構築し、地道に分析していく佐藤さんの研究姿勢について、渡航前に伺うことができたのは非常に幸運なことでした。貴重な機会をいただきありがとうございました。(中鉢記)

 このインタビューの企画をいただく1年ほど前から、中鉢さんや他の研究仲間たちとさまざまな場所で地域研究のあり方や方法論について議論してきました。しかし、どの議論の場においても地域研究のあり方や方法論について確固とした共通認識をつくることができずにいました。今回のインタビューの中で佐藤さんも言及されていますが、「地域研究とは何か」というのは、私たち地域研究者にとっての永遠の課題なのだと思います。ただ、その「何か」に対する答えを出すことができないにしても、佐藤さんがインタビューでおっしゃっていたように、地域を丸ごと理解するという究極的な目標を掲げ、それを常に意識して研究を行うことはできるはずです。そして、それが「地域研究すること」になるはずです。

 ある地域を丸ごと理解しようと意識し、学生/研究者としてその内側に入り込み、「野の言葉」(cf. 東畑精一)を聞き、内側の論理を理解し、そこで起こる出来事の震源地に近づき、キーパーソンを見つけて話を聞く。地域研究者として歩んでこられた佐藤さんの姿勢は、まさに今フィールドでインドネシア地域研究者として長期調査をしている自分が模範とすべきものだと思えました。私も、より内側へ入り込み、震源地を見つけ、「野の言葉」に耳を傾けていこうと思います。(柴山記)