~特別篇 「中堅だって聞いてみたい!」~

聞き手:宮浦理恵(東京農業大学)、貞好康志(神戸大学)

「インタビュー:先達・先輩と語る」第3回は京都大学名誉教授の田中耕司さんにお話を伺いました。自然科学者と人文・社会科学者の協働が日本の東南アジア地域研究の特色とされますが、とりわけ農学分野からその協働に貢献されてきたお一人である田中さんをぜひお招きしたい、という声が大きかったからです。この「先達・先輩と語る」企画の本来の趣旨は、院生やPDなどの若手が主体となって、シニアの大先輩の経験や知見を伺い、読者とも共有しようということですが、今回は特別企画として、気持ちだけは若手に負けない(?)中堅の二人がインタビュアーとなりました。KAPALの運営委員からは大の「田中耕司さんファン」の貞好が司会を兼ね、聞き手を務めます。もう一人、田中さんと同じ農学を専門とする宮浦理恵さんにも加わって頂きました。宮浦さんには単なる聞き手にとどまらず、現役の農学研究・教育者として持論を述べて貰い、田中さんと渡り合う役割もお願いしました。以下、2021年8月26日にオンラインで行なった約2時間のインタビューのエッセンスを、2回に分けてお届けします。

宮浦・貞好:本日はよろしくお願いします。

田中:お招き頂きありがとうございます。こちらこそよろしく。(以下、田中さんのお名前は略)

農学から東南アジア研究へ

貞好:さっそくですが、日本の東南アジア研究では、草創期から農学を中心とする自然科学者が大きな役割を果たしてきました。これはどうしてでしょうか?

戦前の南方研究や南洋資源研究に遡ります。医学、農学、工学、もちろん人文社会科学も含めて南方に関わった人たちが特に京大にはたくさんいました。1950年代後半に日本はコロンボ計画のメンバーになって、戦後賠償を含め東南アジアに援助をする国となります。そして戦前に南方に関わった人たちも加わって東南アジアを研究する組織を京大に作ろうということになり、文部省にその設置を働きかけました。自然科学系の人的資源が京大には豊富にあったのがその理由だと思います。

その時、アメリカの地域研究がモデルになりましたが、あちらでは人文社会科学が中心でした。そこで、自然科学や応用科学の分野を含めた日本独自の特色をもった東南アジア研究を作ろうという構想のあったことがもう1つの理由だと思います。

宮浦:田中さんは、農学科作物学研究室のご出身で、農学部から東南アジア研究センター(以下、改組後も含め東南ア研)に移られました。私が院生だった90年代は、農学の細分化の傾向が強い中で、東南ア研ではそれぞれのディシプリンを持ちながら農という営みをホリスティックに捉えようという意気込みが感じられました。インドネシアや東南アジアの特定の「場」で、作物の栽培技術や農具、農法を丁寧に観察しながら、農の営みを包括的に調査してこられたことはとても重要な研究開拓だと思いますが、ご自身ではいかがでしょう。

昔から「農学栄えて農業滅びる」と言われたように細分化は進んでいました。そんな中で研究対象が何であれ、より包括的な新しい学問分野を作っていくのはそう簡単ではないので、学問の細分化に悩んでいる人にとって地域研究はなかなか魅力的な「フィールド」だったと思います。そこで頑張ってみようという気持ちにさせてくれる「場」でした。

作物学に入ったのは、農学ではそれが一番王道だろうと思ったからです。だけど、ある条件のもとで実験をして、収量が増大した理由を生態学的・生理学的な手法で解き明かすという研究にはあまりなじめませんでした。それで、大学闘争が終わった時、現場で農業がどうなっているのかをもっと実感できる研究に進もうと思い、作物栽培を空間的・時間的に理解する作付体系研究に向かいました。それが多分、東南アジア研究に軸足を移すきっかけになったのでしょう。

貞好:田中さんご自身は、農学という切り口から東南アジアに半世紀関わって来られて、仮結論でいいんですけれども、やはりインドネシアや東南アジアというのは、世界の中でもこういう点が農学的に見て面白い、というポイントがあれば教えてください。

インドネシアの国是として、「多様性の統一」がありますね。農業を見たときも、多様性の統一が面白い所です。ある地域が自然と人間との関わりの中でどんな環境を作り、人々がどんな営みをしてどんな暮らしを立てているのかに私たちは関心を持っていますが、インドネシアほど農業が多様で魅力的なところはありません。

日本では農業が衰退してきたために、農村や地方の活力維持が課題となり、「半農半X」や「6次産業化」のかけ声があがっています。インドネシアではそんなスローガンはありませんが、以前からいくらでもそういう例があります。農業に加えて林業や漁業をやるだけでなく、小商いや仲買い・運送業などの小起業家的なことをやる人が多くいます。逆に、公務員や商人が農地を購入して人を雇って農業を経営している例も少なくありません。日本よりもっと柔軟に農業に取り組む人々がいて、多様な生業が彼らのフレキシブルな営みを通じて「統一」されているというイメージがあります。

フロンティア空間論

宮浦・貞好:田中さんの東南アジアを舞台にした研究の柱と言うか、代表的な仮説の一つとして「フロンティア空間論」があります。これが大体どういうことなのか、その研究の経緯を含めてざっくりと教えていただけますか?

1979年にスラウェシで共同調査に参加したのが最初のインドネシア体験でした。前田(立本)成文さんがリーダーで、高谷好一さん、古川久雄さん、坪内良博さんらがメンバーでした。3か月ほど南スラウェシ州各地を回りましたが、ルウという地方を訪ねた時、移住者がたくさん入り込んでいる地域に出くわしました。農業の開拓前線でした。興味が湧いたので、次の目的地の南スマトラへは同行せずにスラウェシに残ることにしました。

インドネシア語もたどたどしかったので、この時は通訳を使って2か月足らず調査に入りましたが、その後、4,5年ほどいろんな機会にこの地域を訪ねました。もちろん、当初の関心はまだ農学的なものでした。簡単にいえば、開拓前線では、数千年に及ぶ稲作技術発展の歴史が目の前で見られると思ったのです。森を拓いて稲を作るとなると、ある種の先祖帰りというか、鍬も犂も使えないので、棒切れ1つで稲を植えていくような作業をしなければなりません。耕耘などされてない水溜りに稲を植えるわけです。ところが、そこから数百メートル移ると、2~3年前に開墾した人がいて、切り株が少なくなった畑にあぜ道があったり、さらに行くと少し立派な田んぼらしいものが現れて、稲の作り方が現代のそれに近づいてきたりしていたのです。ここなら稲作の発展過程や技術進化、開拓農民の現地への適応過程などをつぶさに観察できると思い調査に入ったわけです。

貞好:ちなみにお幾つでした?1947年生まれの79年だから、31~32歳ぐらい?

それぐらいですね。その頃までは真面目な農学研究者だったんですが(笑)、村で悉皆調査や家計調査をするうちに、作物栽培も面白いけど人間も面白いな、と思い始めたのでしょうね。息子はもうここにいないけどカリマンタンにいるとか、この土地は自転車1台と交換したとか、儲かる作物をつくるためなら少々危ないこともするとか、村人と親しくなるにつれて随分と内輪のことも話してくれるようになりました。カカオのブームが起こっていた時期で、森林地帯に入って、昔から先祖が使っていた土地だといってカカオ園を開いている入植者がたくさんいました。そんなことを見ているうちに、農地や農村を固定的に見ているようではこの地域の農業も社会も理解できないなと思えてきたのです。

開拓村では主に南スラウェシの主要民族であるブギスとかマカッサルなどの人たちの調査をしたわけですが、彼らはもともと若い時に各地に出稼ぎに出たり移住を試みたりする慣習をもつ人たちとして知られていました。そんな彼らの文化とともに開拓空間を捉える必要があると考えるようにもなりました。それが開拓空間をフロンティア空間として捉え直そうと考え始めた最初ですね。

また、商品作物の果たしている役割が非常に大きいということも、フロンティア空間を考える背景になったと思います。ある商品作物がブームになって、土地利用を変え、農村社会を変えていくことにも興味をもちました。そして、このことはインドネシアだけでなく、大陸部も含めて、東南アジアに共通する特徴ではないかとも思いました。

同時に、この州は漁業や海運業に従事する人たちが多いことでも有名でした。入植者たちからかつてカリマンタンやマルク、パプアに出かけていたという話を随分と聞いていたこともあり、沿岸部の人たちの生業などにも関心が向いていきました。ちょうどその頃、長津一史さん(現・東洋大学)や赤嶺淳さん(現・一橋大学)など東南アジアの海域に関心をもつ若い人たちがいたので、スラウェシだけでなく、カリマンタン、マルク、さらにはフィリピンなどへ一緒に出かけるようになりました。海も含めて、フロンティア空間あるいは東南アジアのフロンティア性を考えてみようということになったきっかけです。

貞好:スラウェシで着想を得たフロンティア空間論を、大陸部も含めた東南アジア一般に敷衍していけるんじゃないかという所に、少し補足説明をお願いします。

例えば大陸部のイラワジ、チャオプラヤ、メコンなどの大河川のデルタ地帯ではよく似た農業開発の歴史があり、インドネシアの森林地帯周辺で私が見たのと同じような状況がかつてありました。またインドネシアと同様に、ブーム作物による土地利用変化も頻繁に起こっています。東南アジア大陸部でも人々は活発に移動・移住しています。島嶼部だけでなく大陸部でもフロンティア空間論を敷衍することは可能だと思ったのはそういうことからです。同時に、開拓前線が少し落ち着いて人々が定着してくると、小商いをする女性が出てきたり、農産物の仲買いを始めたり、ピックアップトラックを手に入れて運送業を始めたりというふうに、経済活動が多様化し、活発になってきます。これは東南アジア各地の農村部に共通してみられます。

「商業的」なインドネシアの「農民」

宮浦:農民が色んなことをやるという話と関連してくるんですが、東南アジアの「農民」をどう捉えたらいいんでしょうか。日本だと所得、農業販売額はいくらだとか、土地をどれだけ持っているかっていう農家の定義があるけれど、petaniが何か誰も答えられない。「農家」というものがあるんじゃなくて、農的な営みをどんな人でもできる状況があるという点が重要なように思います。例えば役人であるっていうことと、農をやるっていうことが全然乖離していない。自分の中での活動のアロケーションがあるだけ、儲かればそれをやるだけっていうような状況があると思います。

土地に対しても、同じようなことが言えそうです。西ジャワで調査している時に結構簡単に土地を手放す人たちがいるのを知りました。ボゴール県やチアンジュール県ではジャカルタの人が来て、高いお金で買うと言うと売ってしまい、自分は小作人としてそこを耕している。地元の人はほとんど誰も土地を持っていなくて、不在地主の所有となった土地で農業を営んでいるという構造がみられます。

作物を作るという点でも同様です。スバン県の灌漑地帯あたりでは、製粉用の稲品種を作る方が値がいいからそれを作って、自分は安い飯米を買う。だから日本ほど土地とのしがらみが強くなくて、その時々の流れにうまく乗って農業を営んでいるという、そういう印象があります。それが植民地支配に起因するものか、商品経済の浸透によるものか、ずっと疑問に思っていました。それについてどうお考えでしょうか?

宮浦さんがおっしゃった通り、開拓前線も含めて、農地に対する執着は日本ほど強くないですね。私はジャワからの入植者は土地を手放さない印象をもっていますが、それもブギスに比べたらそうだという程度ですね。家代々の土地という観念はインドネシアの農民からはあまりうかがえません。収入源としてどんな作物を作るかに非常にセンシティブですし、儲かるものを作るためには土地の利用の仕方を変えることもよくやります。土地を売ってしまうこともあります。

もう1つ考えなきゃならないのは、農業労働力ですね。日本では、今でこそ雇用労働力が話題になりますが、かつては家族で農業をするのが普通でした。ところが、東南アジアでは、労働力を雇って農業をする人も結構います。その人にpetaniかって尋ねたら、そうだと言う人もいれば、そう言わない人もいます。だけど農業労働者にpetaniかと尋ねたらそうだって言いますからね。

だから、ご質問に答えるのは難しいですね。全体としては、植民地期以前から、東南アジアで農業をやってる人たちは自分たちの農産物を「外に売る」ということについて意識的だったんだと思います。スマトラの河川交易に関する歴史研究がありますけど、河川の合流点に市が立って、海からやってくる人たちと川上からやってくる人たちはそこで接触しています。だから「交易の時代」などと言いますけど、日本の農村と比べたら、外の人たちとの接触の中で生産物を売るという商業的な感覚をもって農業をやっていた人たちがたくさんいたと言えるんじゃないでしょうか。

元ホスト家族の若者たちと(1997年、 南スラウェシ州ルウ県ウォトゥ再訪時 )

田中耕司さん略歴】

京都大学名誉教授。京都大学では東南アジア研究所(現東南アジア地域研究研究所)所長、地域研究統合情報センター(現東南アジア地域研究研究所)センター長を経て定年により退職。引き続き同大学で白眉センター長、学術研究支援室室長を務めた後、ミャンマーのイエジン農業大学教育研究改善プロジェクトにJICA長期専門家として参加。アジアの農業を主な研究対象とし、日本の農業技術史、東南アジアの農業体系、アジア稲作文化論、インドネシア・スラウェシ地域研究などに取り組んできた。

*「田中耕司さんに聞く(後篇)」はこちらからご覧ください