KAPAL第5回研究大会の2日目(2023年12月17日)に、「シンポジウム: 先達に学ぶ」と題して、加納啓良さん、米倉等さんをお招きし、インドネシア研究を志したきっかけや、ご自身のフィールド、研究の展開過程などについてご講演いただきました。ここでは、米倉等さんが「インドネシアにおける土地と農村社会の開発問題」と題しご講演いただいた内容をご自身にまとめ直していただいたものを、前篇・後篇に分けて掲載します。


インドネシア農業・開発経済学との出会い

 最初に、1975から2023年までの私の活動歴をお話します。それを若干整理するかたちで、どういう研究課題に取り組んでどんな成果があるか、を紹介します。

 私がアジア、あるいは開発途上国に関わるようになったのは、学部時代に、地理学者でフィリピンの研究で高名な東大の高橋彰先生が低開発経済論という講義を経済学部でやっていて、それに興味を持ったことにはじまります。また、東洋文化研究所の原洋之介先生が助手でいらして、農学部の特別講義というかたちでゼミを開いていました。開発経済論のイントロダクションのような内容で、非常に興味を持ちました。そのころ、就職を決めたものの、鬱々として面白くないな、もっと面白いことができないかなと思っていたら、同級生がアジア経済研究所(以下、アジ研)の入所試験の案内を見つけてきて、一緒に受けにいくことになりました。たまたま私は受かり、友人は落ちてしまいました。彼はその後、精神科の医者になっています。

 アジ研には1975年に入りました。加納啓良先生よりも4年ぐらい遅いと思います。入ったときは、ラテンアメリカの研究をしてもらいたい、ついてはポルトガル語とスペイン語を勉強しておきなさい、といわれました。が、2カ月もしないうちに、インドネシアを研究していた三平則夫さんが海外派遣員として来年インドネシアに赴任するので人がいなくなる、ラテンアメリカはいいからインドネシアをしばらくやってなさいということになりました。それがインドネシア研究に入るきっかけでした。2~3年やっているうちに、学部時代の高橋先生と原先生の教えを思い出し、東南アジアでいこう、インドネシアでいこうという気持ちになっていました。その三平先輩が派遣される直前の1年間、みっちりとインドネシアの経済事情や調査方法について、薫陶を受けました。

 私自身は、農業経済学や開発経済学をやろうと思っていました。当時、経済成長調査部に山本裕美さんという、中国研究の専門家で農家主体均衡論といったことを研究されていた先輩(後に京都大学経済学部に異動)がいました。農家主体均衡論は、農業経済学では非常に重要な理論モデルで、中嶋千尋先生という京大農学部の先生が唱えられて、そのあと丸山義皓先生などがおられて、山本裕美さんはそのお弟子さんにあたる方です。その山本さんから、農家主体均衡論に基づいて、特に分益小作(刈分小作と呼ぶ場合もありますが)など農業制度・慣行についての基本的な分析方法を自分の海外派遣前に勉強していました。

 あわせて、岩崎輝行さんという大先輩(後に日本大学国際関係学部に異動)がおられて、開発経済学とか計量経済学をたたき込まれました。ドライムス(P.J. Dhrymes)著の計量経済学の本を1冊読め、といわれて指導を受けていました。

 その間に、所属していたアジ研の部署がインドネシアの地域開発研究プロジェクトを実施していて、西スマトラのアンダラス大学の経済学部におられたヘンドラ・エスマラ(Hendra Esmara)教授の知遇を得ることができました。エスマラ先生は間違いでなければ、インドネシア大学の高名な経済学者だったスミトロ・ジョヨハディクスモ(Sumitro Djojohadikusmo)先生のお弟子さんにあたる方です。やはり著名な経済学者テー・キアン・ウィー(Thee Kian Wie)氏や、インドネシア大学の経済学部長をされたアルシャド(Mohamad Arsyad Anwar)教授といった方々の仲間で、エスマラ先生は地域経済研究の分野で著名でした。海外派遣ではアンダラス大学に行くことにしました。スマトラの農村経済は、研究もされていないようでしたので、これは面白いなと非常に単純な動機で行ったわけです。

西スマトラの農村調査へ

 ところがご承知のように、西スマトラはミナンカバウの社会ですから、母系制のことがわからないと、さっぱりわからない。農村調査をやろうといっても、調査票の準備もできない。言葉も全然理解できない。母系制に基づいた概念というか、観念自体をまず理解しないといけない。予備調査を何度もやって、農民の使うミナンカバウ語でのキーワードをいっぱい拾って、調査ができるようになるまでの工夫にすごく時間がかかりました。インドネシア語自体もまだ中途半端な状態でしたので、最初の1年間は、調査票の準備とインドネシア語学習、それから、若干のミナンカバウ語の練習に終始しました。

 2年目にやっと動き始めて、調査票の性能をチェックするため、予備調査のひとつをリマプルコタ県でやりました。そのあと本調査をブキッティンギ市ジョロン・ディコバレー(Jorong Tigobaleh)地区のカンポン・スムル(Kampung Sumur)と、パダン・パリアマン県ドゥアカリスブラス・ウナム・リンクン(2X11 VI Lingkung)郡のナガリ・コトティンギ(Nagari Kototinggi)の2カ村でやりました。調査の課題は農家経済を中心にしていましたが、ミナンカバウの母系制の制度に引きずられまして、調査は困難を極めました。アンダラス大学の学生アシスタントについてもらって、私がインタヴューをして、その都度、アシスタントにチェックしてもらいながら調査票に記入する方法をとりました。帰国して、すぐに成果をまとめることができませんで、お茶を濁したような論文を何本か書いたという[1]例えば以下の論文。米倉等「西スマトラにおける水稲生産の発展(I): その要因と影響」『アジア経済』25(2), pp.42-61, … Continue reading、そういう研究生活のスタートでした。

 写真1は、私がお世話になったアンダラス大学経済学部にありました地域経済研究所です。エスマラ先生が主催されていて、ここに一室をもらって仕事をしていました。左から3人目がまだ髪の毛も真っ黒な当時の私で、右端が公私共にお世話になったヒダヤット講師(故人)です。写真2は、2年間の滞在の最後に送別会を開いてくれた時の写真です。私(左から3番目)の右に映っているのがルスティアン・カマルディン教授で、さらに右の赤い服を着た方がエスマラ先生です。両先生ともすでに故人ですが、2年間大事にしていただきまして、本当に助かりました。

写真1 アンダラス大学経済学部地域経済研究所で、1981年
写真2 アンダラス大学経済学部の先生方による送別会、1981年

ミナンカバウの農村風景

 写真3は、調査村ではありませんが、タナダタール県にあるラオラオという村です。地域開発研究プロジェクトの時、1977年ごろの写真で、ミナンカバウのルマガダン(rumah gadang)という特徴的な家がたくさん残っていて、村のなかに子どもたちがいっぱいいる世界でした。数年前に再訪した時には、家は残っていましたが、子どもたちの姿はほとんど見られなかったです。たくさんの人たちがムランタウ(merantau, 出稼ぎ)に出て、一家挙げての離村も増えているということで、村内の雰囲気・様子は大きく変わっていました。

写真3 タナダタール県ラオラオ村の風景、1977年

 写真4は1980年ごろのパダン市内の様子です。5年前(2018年)に行った時にはこの場所は確認できず、すっかり様子が変わっていました。第二次世界大戦中は、シンガポールで発行されていた『昭南新聞』の支社がここに置かれていて、こういう跡が1980年ごろまでは残っていました。このベンディ(bendi)と呼ばれている馬車が、街なかの主要な交通機関の一つで、馬ふんが路上に転がっている、そういう時代でした。

写真4 パダン市内の風景(Jl.Podok沿道と思われる)、1980年

 写真5は調査村の一つ、ブキッティンギ市のカンポン・スムルの田植えの様子です。最近(2023年12月)も噴火したマラピ山の山麓の村で、水がよく湧いて水田耕作に適し、おいしいお米ができる集落でした。写真6は収穫したあとの脱穀風景で、ミナンカバウ語でイリアッ(iriak)といっていました。足で踏みつけて脱穀をする方法が広く行われていました。今は、ほとんど消えてしまったと思います。こんなところで調査をしておりました。

写真5 ブキッティンギ市カンプン・スムル付近の水田、1980年
写真6 カンプン・スムルでの脱穀作業(イリアッ)の様子、1980年

 もう一つの調査地がパダン・パリアマン県で、海に近い地域です。写真7は調査村のすぐ隣の村、ナガリ・パカンダガンの市場の様子です。調査村のコトティンギは平地村で、農業労働が注目されました。女性による、一種の結いのようなかたちの労働が行われていました。

 写真8は夕方、午後3時か4時ぐらいになると、皆さん、田んぼ仕事から上がってきて、ぞろぞろと歩いていました。非常に美しい光景でした。マラピの山麓も非常にきれいでしたし、パリアマンの海に近い村々も美しく、そんなところで実に楽しく調査をしていたのですが、成果はさっぱり出てこないという研究人生でした。

写真7 パダン・パリアマン県のナガリ・パカンダガンの市場風景、1980年
写真8 パダン・バリアマン県のナガリ・コトティンギにて、水田での農作業から帰る女性たち、1980年

米作から畑作への研究関心のシフト(1980年代~)

 海外派遣が終わって1980年代には、滝川勉先生が主催する通称「滝川研究会」というアジ研の研究会に入って、西スマトラの農村研究をまとめようとしておりました。ミナンカバウの母系制を理解しようと思い、人類学などもかなり勉強したつもりです。ただ農業経済が専門ですので、主要な関心は米を中心とする農業発展政策にありました。たとえば、種子や農業技術の普及事業です。インドネシアの普及員(Penyeluh Pertanian Lapangan: PPL)制度では、元々は世銀が開発したTraining & Visitという普及システムに基づいたLAKU(Latihan dan Kunjungan)が広く行われていて、その仕組みがどうなっているかを調べる仕事をしました。それから、特に力を入れたのは農業政策金融です。ビマス・インマス・クレジット(Kredit Bimas/Inmas)という制度がありまして、これが新しい技術を農村に広く定着させるうえで非常に重要な意味を持ちました。それから肥料産業、すなわち、新品種の種子とともに肥料を農民に供給するための肥料産業の育成が重要な課題になっておりましたので、それも研究対象にしました。それから、重要といえばもっと重要な、灌漑開発に関する研究にも手を染めました。一口に農業政策といっても非常に範囲が広いものですから、ほとんど分裂状態で研究していました。

 多少の論文を書くうちに、西スマトラへの関心がだんだん薄れてきました。米の自給化が一応実現した後は、インドネシアの農業政策も米を中心とする関心から、農業の多様化に課題が移ってきたわけです。そんな時代状況に引きずられるような格好で、私も関心をそちらに移すようになります。米以外ということで、特にトウモロコシやダイズといった畑作物に注目した研究が重要だと思った次第です。そのころは、世界銀行や国際機関なども、こういう研究に力を入れ始めておりました。これは、米の生産がオーバーシュートして、過剰生産になることを心配していたことが背景にあるわけですが、私もそれに近い考えをしていました。日本の経験でもそうでしたけれども、畜産事業が盛んになることが目に見えていました。そうすると、飼料供給のために畑作物が重要になってくるわけです。

国立マラン農業試験場での調査

 そんなときに、国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)の機関であるCGPRTセンター(Regional Co-ordination Centre for Research and Development of Coarse Grains, Pulses, Roots and Tuber Crops)というのがボゴールにありました。これは日本の農水省、オランダ政府、それからフランス農業開発研究国際センター(CIRAD)などがお金を出して、1980年代にボゴールにつくった、畑作物の研究センターでした(写真9)。CGPRTというのは畑作物の頭文字をとった名前です。

 CGPRTセンターは、その後2000年代に名前を変えて、CAPSA(Centre for Alleviation of Poverty through Sustainable Agriculture)という貧困撲滅センターにミッションを変えて存続していましたけど、数年前に、ついになくなってしまいました。建物はまだ残っています。発足当初、一番お金を出していた日本が所長のポストをとっておりまして、世銀で仕事をされていたことのある、岡部四郎先生が最初の所長でした。そのあと、OECDやFAOで仕事をされていた新藤政治先生が所長をされていました。1989~1991年にかけて、これらの方々の関係で呼んでいただいて、2年3カ月ほど畑作物を中心とした農家経済を調査する機会に恵まれました。センターはボゴールにありましたが、東ジャワのマランに、当時、国立マラン農業試験場、英語の略名でMARIF(Malang Research Institute for Food Crops)という畑作物研究のための国の農業試験場がありまして、そこにステーションを置いて調査しました。農家経済調査として、ンガンジュッ県とマラン県の2カ所で詳細な調査を実施しました。

写真9  ボゴール市のCGPRTセンター、2005年撮影時はすでにCAPSAに改称

 写真10~14は、そのときの写真です。写真10がンガンジュッ県パチェ(Pace)郡の調査地、平場に入ったところにはオランダ時代からの灌漑水路があって、5月か6月ぐらいになりますと、ダイズ作が盛んに行われる(写真に見えるのは水稲)ところでした。写真11は、灌漑のない村で乾期にトウモロコシを収穫しているところです。畑作物を広く耕作するところはだいたい山に近く、写真10、11の後方に写っているのはウィリス山ですが、景色が美しい地域です。しかし土壌の保全など栽培環境は厳しいと言えます。

写真10 ンガンジュッ県パチェ郡の水田と灌漑風景、後方はウィリス山系、1990年
写真11 ンガンジュッ県パチェ郡のトウモロコシ収穫風景、1990年

 写真12は華人の穀物商です。農家でいろいろ聞いて流通ルートをたどっているときには、この華人の穀物商が、農民たちの社会経済生活を上から覆う強力な支配者のような、そういうイメージを抱かされました。しかし、実際にルートを追って、インタヴューに行きますと、写真にあるように汗みどろになって、懸命になって働いています。秤の右側に箱がありますが、このなかに5千ルピア札がごっそり詰まっていました。それで現金商売をやっていました。

写真12 ンガンジュッ県パチェ郡の華人系穀物集荷商、1991年

 写真13はマラン県ワジャッ(Wajak)郡の調査地スコリロ(Sukolilo)村です。水田が一方で開けて、もう少しスメル山麓に近づいたところでは畑作が行われています。非常に美しい風光明媚な農村光景が見られるところです。写真14は、スコリロ村のパトゥッ区(Dusun Patuk)での写真です。調査を支えてくれたMARIFのヘリヤント上級研究員にはその後も長く東ジャワでの調査で協力いただきました。

写真13 マラン県ワジャッ郡スコリロ村からスメル山を望む、1991年
写真14 パチェ、ワジャッの両地域で調査に参加してくれたMARIFの社会経済系スタッフ、左からムスリムさん、ヘリヤントさん。右端はエフェンディさん(東ジャワ州の普及員)。右から2人目はスコリロ村パトゥッ区長シャムスリさん(故人)、1991年

 写真15は、私が世話になっていたMARIF農業試験場です。その後、名前を変えて、写真にあるように英語の略名でRILET(Research Institute for Legumes and Tuber Crops)となりました。ヘリヤント上級研究員がリーダーだった社会経済系の研究員たちと一緒に仕事をしておりました。農業試験場はだいたいどこもそうなのですが、敷地が広々としていて非常に静謐な深閑とした感じで、その雰囲気が好きでした。

写真15 マラン県のRILET、1996年

農村社会経済制度への注目(1990年代)

 マラン県での調査成果を持って、1991年末にアジ研に戻りました。開発研究により関心を持つようになり、総合研究部(旧経済成長調査部)に移りました。1980年代には地域研究部(旧調査研究部)でインドネシアのことを勉強し、その蓄積に基づいて、90年代は経済分析に力を入れることになりました。農村社会経済制度に注目したのは、山本裕美さんとの研究の流れですが、特にスティグリッツ(J. Stigliz)ですとか、スリニバサン(T. Srinivasan)、バルダン(P. Bardhan)といった経済学者の研究をフォローしていました。それから、80年代後半には、ハウスホールド・モデルの研究成果が世銀のエコノミストのリン・スクイヤー(Lyn Squire)やインダージット・シン(Inderjit Singh)などの研究者によって出されていて、これらもフォローしました。結果的にはお勉強にとどまったという感じでしたけど。

脚注[+]